長崎地方裁判所 昭和44年(ワ)544号 判決 1974年3月22日
長崎県島原市中堀町一五六番地
原告 八木晴恵
右訴訟代理人弁護士 木村憲正
長崎市江戸町二番一三号
被告 長崎県
右代表者知事 久保勘一
右訴訟代理人弁護士 栗原賢太郎
被告指定代理人 沖本順市
同右 重水徳郎
主文
一 被告は、原告のために、別紙第二記載の要領により別紙第一記載文面の謝罪広告をせよ。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は全部被告の負担とする。
事実
第一各当事者の求めた裁判
一 原告
(主位的請求として)
被告は、原告のために別紙第一記載文面の謝罪広告を長崎新聞、朝日新聞(全国版)、毎日新聞(同上)及び西日本新聞の各社会面広告欄に、大きさを二段ぬき、見出および原告・被告名を二倍活字、本文を一・五倍活字として、各一回掲載せよ。
訴訟費用は被告の負担とする。
(予備的請求として)
被告は、原告に対し、金七〇万円とこれに対する昭和四四年九月一三日から右完済まで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
二 被告
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
第二主張
一 原告の請求原因
1 原告の身分ないし社会的地位
原告は、昭和一八年四月一八日生れの未婚の女性で、昭和四四年九月当時長崎県島原市内において映画舘「八木舘」「松竹舘」および「島原映劇」を経営し、また当時原告の父八木豊は長崎県議会副議長の職にあり原告はその娘として、相当の社会的地位と名誉を得ていたものである。
2 長崎県警察の原告に対する不法行為
(一) 違法不当な逮捕と勾留
原告は、昭和四四年九月一三日長崎県警察(以下「警察」という。)の手によって暴力行為等処罰に関する法律違反の容疑で逮捕され、ついで同月一六日から三〇日まで一五日間勾留された。しかし、右逮捕・勾留はいわゆる別件逮捕・勾留であって違法である。違法たる理由はつぎのとおりである。
(1) (原告逮捕に至る背景) 原告の逮捕より約二ヶ月前の昭和四四年七月一〇日午後七時過ころ、長崎市伊良林町一丁目の道路上において、長崎県議会議長池田辰巳が帰宅途上何者かによって背後から鋭利な刃物で心臓付近を突き刺され死亡するという事件が発生した。
警察は直ちに捜査に着手し、事件発生直後と思われるころ右現場付近から乗用自動車「日野コンテッサ九〇〇」が発進したのを目撃したという者を発見、同人からの聞込みによってその「日野コンテッサ九〇〇」が事件と何らかの関連を持つものと判断し、直ちに県下警察機関に右同型車に注意するよう手配した。そして、同日夜、諫早市宇都検問所において、長崎県南高来郡国見町に住む訴外甲野太郎が「コンテッサ九〇〇」を運転していて検問にあったが、同車には一人の女性が同乗していた模様である。警察(池田事件特別捜査本部)は、その後の捜査の過程で、この女性が原告ではないかとの疑いを持つに至っていたところ、他方で訴外甲野と原告が顔見知りであったことが判明するに及んで、原告の父八木豊と殺害された池田辰巳が不仲であるという風評があったらしいことも災いして、警察は、原告には父と対立関係にある池田議長を殺害する動機が十分あり、従って事件直後殺人現場から発進した「コンテッサ九〇〇」は甲野運転のコンテッサではないか、またこれに同乗していた女性は原告ではないか、と原告と池田事件の関連について強い疑いを抱くに至った。
そこで警察は、訴外甲野に対し一〇回近くにわたり任意出頭を求めてこれを取り調べたが、事件に関係する供述はおろか検問当時コンテッサに同乗していた女性が原告であるという供述すら得られなかった。また原告に対しても任意出頭を求めて同年七月二七日諫早警察署において、甲野運転の車に同乗した事実の有無について取り調べたが、原告はそういう事実はないのでこれを強く否定した。
ところで、同年八月から九月にかけての時点における池田事件の捜査の進捗状況をみるに、事件から一、二ヶ月を経過してなお兇器その他物的証拠というべきものは何ら発見されず、他に有力な手がかりもないまま捜査は極めて難航していた。このような状況の下で、警察は、右のとおり訴外甲野や原告の否認にもかかわらずなお原告らを追及することによって、事件解決に何らかの手がかりを見い出せるものとの希望を捨て切れないでいた。
(2) (原告の逮捕・勾留)
(イ) 原告の周辺の聞込みを続けていた警察は、そのころ原告に関するつぎのような被疑事実を探知した。すなわち
原告は、昭和四二年八月一六日ころの夜島原市内を一人で帰宅中、自動車で通りかかった訴外林田次男ほか数名から自動車に乗れとおどかされ(このとき右林田らは原告を自動車で連れ去り、強姦する意図を持っていたようである)、これを拒否したところ林田から顔面を強打されて道路に転倒し、唇にけがを負わされたので、同月三一日ごろ、林田次男を映画舘「八木舘」に呼出し「お前から殴られて唇をけがした。お前も唇を切れ。」と申し向け、また出刃包丁を突きつけ「逃げるか、逃げても逃げきらんぞ。」と脅迫し、さらに同年九月七日午後四時ごろ「八木舘」に謝りに来た林田に今度は飛出しナイフを突きつけて「お前も唇を切れ。」とおどした。
という被疑事実であった。
(ロ) 警察は、右被疑事実を探知するや、これに基づき、逮捕状請求書に逮捕を必要とする事由として「①被疑者は暴力団八木一家の首領の娘であって証拠隠滅をはかるおそれがあり、②しかも数回の任意出頭に応じない為」と記載して、島原簡易裁判所裁判官(訴状に長崎地方裁判所裁判官とあるのは誤記と認める)に逮捕状を請求し、令状発布を得て昭和四四年九月一三日原告を逮捕し、島原警察署に身柄を留置した。
(ハ) 警察は、逮捕当日の九月一三日と翌一四日逮捕の基礎となった暴力行為について原告を取り調べ、勾留の資料を整えて同月一五日身柄を池田議長刺殺事件の特別捜査本部が置かれている長崎市へ移したうえ、同一被疑事実をもって勾留を請求し、翌一六日勾留状の発布を得るや、原告を大浦警察署に勾留、爾後原告の弁護人から九月二四日本件勾留は別件逮捕を基礎とする別件勾留であって違法である旨の勾留に対する準抗告がなされるに及び翌二五日身柄が浦上拘置所へ移監されるまで、右捜査本部の係官をして専ら池田事件について原告の取調べを続けさせた。
(3) (逮捕・勾留の違法性) いわゆる別件逮捕・勾留については議論のあるところであるが、「ある重要犯罪について、証拠関係が不十分なため直ちに逮捕・勾留の令状の発布を求め得ないのに、捜査機関が当初より右の重要事件の捜査に利用する目的で、その事件とは直接関連性もなく事案も軽微で、それ自体では任意捜査でもこと足りるような被疑事実をとらえて、まずこれによって逮捕・勾留の令状を求めて身柄を拘束し、その拘束期間のほとんど全部を、本来のねらいとする事件についての取調べに流用するような捜査方法」(東京地方裁判所昭和四五年二月二六日東京麻布連続放火事件判決、判例時報五九一号三〇ページ)は、別件逮捕・勾留として違法であると考える。本件原告の逮捕・勾留は、まさに池田刺殺事件の捜査、取調べに利用する目的ないし意図の下になされたものであることはつぎの(イ)ないし(チ)の各事実から明らかである。
(イ) 逮捕状請求(昭和四四年九月一二日)当時の池田事件捜査の客観的進展状況は、前述のとおり、警察は、訴外甲野太郎や原告の事件との関連について疑いをかけながらもこれを逮捕するだけの証拠を得られず、他に何らこれという手がかりも発見しえず、別件ででも原告や甲野を逮捕し捜査に転機をもたらそう、と考えるのも無理からぬ状況にたち至っていた。
(ロ) 逮捕、勾留の基礎となった暴力行為等被疑事件は逮捕勾留を必要とする事件ではなかった。すなわち、
① 事件自体二年以上も前のものであり(ちなみに、暴力行為等処罰に関する法律第一条の罪の公訴時効は三年である。)、その内容も、原告が殴打されて口唇を五針も縫う傷害を受けているにかかわらず、何ら慰藉の方法を講じようともしない林田次男に対し、謝罪を要求したものである。
② 原告は定った住民と職業を有し、県議会副議長を父にもつ未だ若い未婚の女性であり、前科・前歴なく、日常の生活状態も極めて正常な一般市民であった。
(ハ) 右のように被疑事実、被疑者の身分経歴に照して、通常は逮捕の必要性に疑問を抱かれる場合であることから、警察は、逮捕状請求書に虚偽に近いともいえる、極端に誇張した逮捕の必要性を記載して逮捕状を請求した。
① まず「被疑者は暴力団八木一家の首領の娘であって証拠隠滅をはかるおそれがあり」という点について言えば、昭和四四年九月ごろ、暴力団八木一家なるものは存在していなかったし、そう呼べるような組織的動きもなかった。また被疑者たる原告の周囲、例えばその経営する映画舘の従業員の中に暴力団的においのする人物はいなかった。これらの事情は当時捜査本部に十分わかっていた。また、被告は、強制捜査をした理由として、被害者や関係人が後難をおそれていたことをあげるが、右のように原告には暴力団的な活動が全然なく、またそうであることは捜査本部も十分熟知していたことであるから、仮に被害者らがそのように考えていたとしても、後難をおそれるに足る客観的、合理的理由のないことは判然としていたのである。しかも、林田次男が事件後島原を出て横浜へ行った理由は、その両親が、次男を島原に居いていては悪いことばかりするからと心配したためであって、決して後難をおそれたのではなく、林田次男自身も原告を殴打したことさえ一時は忘れていたほどであった。
② さらに、逮捕状請求書に記載された「数回の任意出頭の求めに応じない」という点は、全くの虚偽である。原告は、同年七月二六日の朝突然、同日午前一〇時までに長崎警察署へ出頭するよう警察から求められた際、時間も切迫しており当日急を要する仕事があったためこれを断ったことこそあれ(翌二七日要請に従って諫早警察署へ出頭したことは前述のとおり)、被疑事実たる暴力行為に関して任意出頭を求められたことは一度たりともない。
(ニ) 池田事件の捜査本部は、原告が同乗していたと見られた甲野太郎についても、逮捕状を請求してその発布を得たが、その被疑事実に至ってはあまりに軽微であったためか、その執行さえしなかった。しかし、その請求にあたっては原告の場合と同じく、「被疑者が任意出頭の求めに応じないため」と逮捕状請求書に記載させたが、これまた全くの虚偽である。すなわち、捜査本部は、その時までに既に池田事件につき一〇回近くにわたって任意出頭を求め取調べを行っていたが、なんら得るところがないため、それ以上任意取調のため甲野を呼出すことは自ら断念していたくらいで、同人が任意出頭に応じないということはありえない。
(ホ) 警察は、原告の逮捕とともに、令状をとって各所の捜索差押を行ったが、それが主として池田事件捜査の目的であったことは、差押えた物件の全部が被疑事実たる暴力事件とは何らの関係もなく、むしろ池田事件と関係あると思われるもののみであったこと、捜索した場所が池田事件と関係あるものと警察がみていた八木豊関係の場所を全て含んでいたこと、などからして明らかである。
(ヘ) 原告に対する被疑事実は前記のように軽微なものであるから、その逮捕・捜索に当っては、管轄署である島原警察署にまかせていいはずなのに、原告を逮捕する日には、池田事件捜査本部の主だった者は、みな島原に集っていたし、捜索も同本部の捜査官たちを中心に行われた。
(ト) 逮捕・勾留の請求に用いられた証拠資料は、原告の身柄拘束という至上命令のために誤った捜査姿勢によって作出されたものである。暴力行為被疑事件の捜査員は関係者に真実を語らせようとの姿勢に欠けており、供述者の誤解を正そうとしなかった。たとえば、
① 逮捕状記載の被疑事実一のうち「所持していた出刃包丁を突きつけて……脅迫し」とある点は、そのような事実は存在しなかったことがのちに被害者林田次男本人の検察官に対する供述によって明確になるのであるが、右被害者の昭和四四年八月二四日付司法警察員に対する供述調書では「のど首のところに突きつけるように示され……」という記載になっている。なぜ、このような誤った供述録取がなされたかを考えると、同調書末尾添付の図面が、林田次男が覚えていないといって作成できないでいるのを捜査官が同人の妻に指示して出刃包丁の図を書かせ、いかにも原告が突きつけた包丁の図を林田自身が書いたかのようにして調書に添付するというような、およそ真実発見とはほど遠い捜査姿勢に原因があるといわざるを得ない。
② 同じようなことは参考人林田キサエの調書にも見られる。その第一三項に「前に申しましたような訳で、警察ザタにはしないからといって、さんざん私共や次男を脅しておいて、その後で警察に届け、自分のしたことは何もいわずに息子だけを悪者にしたのかと思うと、今までこちらが悪いことをしたのだからとこらえていたのが、もう我慢ができなくなりました。」との記載があるが、原告が被害を警察に届け出ていないことは、捜査官にはわかっていたはずなのに、キサエの誤解をあえて解こうとはしていない。
以上のようなことは、被害者や関係者をして原告への敵意を強めさせ、捜査官の意図どおりの供述調書を作成する一助として使ったものと思われる。そして、捜査官が真実をつかもうという態度に欠けて、作為的な捜査を行ったのは、本来のねらいである池田事件の捜査に使うため、どうしても暴力事件で原告を逮捕しなくてはならないという至上命令があったからにほかならない。
(チ) 警察の違法目的は逮捕後の違法な取調べとなって現われている。
① 前述のとおり逮捕勾留後は、身柄を大浦警察署に移して殆んど池田事件の取調べを行った。
② 原告の取調べは、池田事件の捜査本部があたり直接の捜査官は重水警部であった。しかして、同警部は、池田事件の捜査において当時の段階で最も重要な事件解決のカギと見られていた殺害現場から逃走した自動車の捜査を担当している捜査官であった。
③ 反面、暴力行為についての被疑者である原告以外の者に対する取調べは、原告の身柄拘束後は、林田の検察官による取調べと、実況見分が行われたに過ぎない。
(二) 報道機関に対する配慮の欠如に基づく名誉侵害行為
司法警察職員その他職務上捜査に関係あるものは、被疑者その他の者の名誉を害しないように注意すべき義務がある(刑事訴訟法第一九六条)。
池田事件の捜査本部は、事件発生後数日を経ぬうちに、原告が甲野運転のコンテッサに同乗していたのではないか、との疑いを抱いたが、そのことを報道関係者にも話していたため、原告の逮捕以前から、新聞なども池田事件の報道において「島原市内の女性」とか「ナゾの女」とかいう表現で原告のことを報道していることは熟知していた。従って、もし原告が逮捕されるにおいては、全報道機関が池田事件と原告を関連づけ、しかも仮称でなく実名をもって報道するであろうことは、十分予測していたし、また予測できる状況にあった。このような状況の下で原告に対する捜査をなすに当っては、原告の名誉を侵害しないよう特段に慎重な配慮をなすべきところ、警察は右の注意を欠いて、池田事件の捜査を急ぐあまり、強制捜査の必要もない暴力行為事件に名をかりて、あえて強制捜査に踏み切った。
その結果、九月一四日の各新聞はいっせいに原告の写真入りで、原告が池田刺殺事件の取調べのため逮捕された、と全国版社会面で大々的に報道し、以後連日にわたり、新聞、テレビ、週刊誌等によって、原告がいかにも池田事件に関係しているかのような記事やニュースが流された。そして、その間警察も、原告を池田事件に関連があるものとして取り調べることを発表し、あるいは前記報道を否定しなかった。
もし仮に、原告に対する逮捕それ自体違法でなかったとしても、不当であったことは否定できないところであり、右のような名誉侵害のおそれがあるのに、あえて不当な逮捕行為に出たことについても不法行為が成立するものである。
3 原告の蒙った損害
原告は、以上に明らかにしたとおり、違法な逮捕勾留によって九月一三日から同月三〇日まで自由を拘束され、また報道機関からは池田事件の関係者の如く大々的に報道され、著しい精神的肉体的苦痛を蒙ったほか甚しくその名誉を害された。
4 被告の責任
原告に対し叙上の不法行為を行い、右損害を与えたものは被告長崎県の地方公務員たる警察官であるから、被告は原告に対し国家賠償法第一条、第四条、民法第七二三条により、原告の名誉回復のため適当な措置を講じ、またはその損害を賠償すべき義務がある。
よって、原告は被告に対し、まず、名誉回復のため損害賠償に代えて主位的請求の趣旨のとおりの謝罪広告を求め、右請求が認められないときは予備的に、慰藉料として金七〇万円とこれに対する不法行為の日である昭和四四年九月一三日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 被告の答弁および反論
1 請求原因事実に対する認否
請求原因1項(原告の身分ないし社会的地位)の事実は認める。
同2項(一)(違法不当な逮捕と勾留)のうち、
① 冒頭の、原告が昭和四四年九月一三日主張の容疑で逮捕され、ついで同月一六日から三〇日まで勾留された事実を認める。
② (1) (原告逮捕に至る背景) のうち、当時の県議会議長池田辰巳の刺殺事件の発生および警察の日野コンテッサに対する緊急手配に関する事実、同夜宇都検問所において訴外甲野太郎が同型車を運転して検問に会ったこと、同車に同乗の女性があったこと、警察がその女性を原告ではないかと考えたこと、訴外甲野を数回任意出頭を求めて取調べたこと、同月二七日原告を諫早警察署に任意出頭を求めて取り調べたこと、その際原告が甲野の自動車に同乗していた事実を否認したこと、をいずれも認め、その余の点を争う。
③ (2) (原告の逮捕・勾留) (イ)の警察が池田議長刺殺事件に関し聞込み捜査中、ほぼ原告主張のような被疑事実(なおそのほかに後述のとおり暴行被疑事実もあった。)を探知したこと、同(ロ)の、右事実につき警察が主張のとおりの事由に基づき逮捕状を請求し、島原簡易裁判所裁判官(答弁書に長崎地方裁判所裁判官とあるは明白な誤記と認める。)から逮捕状を得て、九月一三日原告を逮捕、留置したことをいずれも認める。
④ 同(ハ)のうち、警察が逮捕当日の九月一三日と翌一四日逮捕事実について取り調べたこと、同月一五日(被告準備書面に一三日とあるは誤記と認める。)原告の身柄が島原警察署から長崎市内大浦警察署へ移監されたこと、九月二四日原告の弁護人から準抗告の申立があったこと、翌二五日原告の身柄が浦上拘置所へ移監されたことはいずれも認め、警察が原告を大浦警察署在監中専ら池田刺殺事件について取り調べたとの点を否認し、その余の点を争う。
⑤ (3) (逮捕勾留の違法性) の事実上、法律上の主張については後に詳述するとおり、これを争う。
請求原因2項(二)(報道機関に対する配慮の欠如に基づく名誉侵害行為)ならびに同3項(原告の蒙った損害)の事実上、法律上の主張は後述のとおりいずれも争う。同4項のうち、原告の逮捕、取調べに当った警察官が被告長崎県の警察職員であることは認めるが、被告の責任は否認する。
2 本件逮捕・勾留に関する主張
(一) いわゆる「別件逮捕・勾留」の主張について
いわゆる「別件逮捕」なる問題については原告のいう如く種々の議論がなされているところであり、また「別件逮捕」なる用語は厳格にいうならば必ずしもその概念が確定しているわけでもないので、「別件逮捕」を原告のいう如き概念に固定せしめて論ずることじたいについても、またその違法性の有無に関しても問題があると思うのであるが、「別件逮捕」を原告主張の如き意味のものだとするならば、本件の逮捕は別件逮捕ではない。いずれにせよ、本件原告に対する暴力行為事件による逮捕、勾留、取調べは原告の掲げる概念に該当するものではない。
警察が原告を暴力行為等処罰に関する法律違反被疑事実をもって逮捕令状を得て逮捕し、その取調べの過程で他事件(池田議長殺害事件)に関しても取調べを行ったことは被告も争うところでない。一般にこのような経過形体をとった捜査方法に対しても広い意味では別件逮捕の問題として論じることができるとして、捜査官が、他事件の取調べを目的として別の被疑事実について逮捕状を求め、その逮捕・勾留に記載されている基本的な被疑事実については取調べの意図がなく、それによる身柄の拘束を専ら他事件の取調べのために利用するという場合は、被疑者の実質的防禦権の問題や令状主義の潜脱などの問題を招き、違法、不当性が生じてくる場合もあろうが、しかし、捜査官において、ことさらに右逮捕・勾留を利用する目的に出たものではない場合には、その基本的な被疑事実の取調べに当って、捜査はこれに限定されず、これと平行して未だ犯人を特定するに足る資料のない犯罪に関する取調べができないというものではなく、後者の犯罪についての取調べが著しく不当と認められない限り、右逮捕・勾留の手続をもって違法ということはできないものと解するのが相当である。当時原告に対する本件暴力行為被疑事件の勾留につき弁護人から申立てられた準抗告に対する昭和四四年九月二五日長崎地方裁判所の却下決定(同年(む)第五一八号)も、右のような見解に立ってなされたものと思われる(大阪高裁昭和四三年(う)第九三六号殺人被告事件昭和四五年四月二四日刑事四部判決、判例時報六〇七号九二頁も同趣旨である)。
以下、原告に対する本件逮捕勾留に違法不当性のないことを事実関係を詳らかにすることによって明らかにする。
(二) 暴力行為事件の探知と逮捕を必要と判断した事由について
(1) 捜査の端緒
昭和四四年八月下旬から九月はじめにかけてのころの池田議長刺殺事件の捜査の状況は、警察において内偵中の容疑者が四、五名あり、これらの者について捜査を継続中であった。また原告および甲野については、その行動、供述等から池田事件になんらかの関連があり、またはなんらかの事情を知っているものではないかとの判断に基づき事情聴取をしていたが、「原告や甲野を別件ででも逮捕しなければならないと考えるのも無理からぬ」という状況はなかった。
たまたま、警察において池田事件に関し島原一円を聞込み捜査中、同年八月二二日付近の住民から「二年くらい前に八木晴恵が島原市内の青年から傷害を受けたことに立腹し、大村の方から若い者を呼び寄せてその青年を探し出し相当に痛めつけている。その青年は後難をおそれて他県に逃げ出し今まで帰ってきていない」という聞込みを得た。よって捜査したところ、島原警察署の事件簿及び関係者の供述等から次のようなことがわかった。
すなわち、原告八木晴恵被害の傷害事件の被疑者は林田次男にして、同人は当時(昭和四二年一一月)逮捕状を得て全国に指名手配中昭和四三年五月九日神奈川県鶴見署で逮捕され、同年六月二九日罰金一万五、〇〇〇円の判決を受けている。しかし、一方原告の報復行為として惹起された暴力行為については、被害者が後難をおそれて、被害申告を行っていなかったため立件されないままになっている、という事実が判明したのである。
(2) 探知した被疑事実
そこで関係者について事情を聴取したところ、その後逮捕状請求書に記載されたつぎの被疑事実が判明した。
「被疑者(原告)は、昭和四二年八月一六日の深夜、島原市蛭子町付近を一人で帰宅中、林田次男から殴打傷害を受けたことに憤激してその報復を企て
昭和四二年八月三一日午後八時ごろ島原市中堀町一五六、八木舘事務所で前記林田次男を呼びつけ「お前からうちは唇をけがさせられたからお前も切りなさい。うちの前で切らんとどうするか知らんよ。」と申し向けて脅迫し、これに畏怖した同人がその場から逃げ出したところ、同舘出入り口の番台付近で所持していた出刃包丁をつきつけ「逃げる気か、逃げられるもんか、お前を刺し殺すまで追いまわす。」と申し向けもって兇器を示して脅迫し、
昭和四二年九月七日午後四時ごろ前記八木舘事務所において前記林田次男に対し、所持していた飛び出しナイフを突きつけ「うちはお前から唇を切られたからお前の口唇を切らせてくれ」等と申し向けもって兇器を示して脅迫し、
その直後所携のナイフで同人の顔面を切りつけたが身をかわされて傷害を加えることができず、かつ、同所にかけつけた林田秀夫(次男の父)等に兇器をとり上げられたため、右手をもって右林田次男の左顔面を三回にわたって殴打するなどの暴行を加えた
ものである。」
(3) 逮捕の必要性を認めた理由
関係者らは、右事情聴取に際し捜査官に対しそれぞれつぎのような供述をした。すなわち
(イ) 被害者の父林田秀夫、同母林田キサエは、「次男(被害者)が当時急に自宅に寄りつかなくなったので心配していたところ、その頃の夜二回にわたって八木晴恵が単身自宅に乗り込んできて『息子を出せ』とどなり込んだので、はじめて息子が何か仕出かしたことがわかり、その後息子を探して親子揃って謝りに行ったことがある。その後、息子のことが心配になり横浜の長男のところに身をかわさせた。」旨供述し、
(ロ) 林田次男は、「相手をけがさせたのは自分が悪かったのであやまりに行ったところ、出刃包丁でおどされたので逃げ帰り、その後は仕返しがおそろしくて自宅に寄りつくことができず、友人のところや、山の中に寝泊りしていた。その後両親と電話連絡をして一緒にあやまりに行ったが、再びとび出しナイフでおどされたり殴ぐられたりしたので、身の危険を感じ両親にも相談して兄のいる横浜市に身をかくし、両親以外には今まで誰にも住所も知らせていない。」旨供述し、
(ハ) 更に、原告被害の傷害事件当時林田次男と自動車に同乗していた平坂功、北田清八郎、永野武らの供述を綜合すると、同人らが行きずりの車の上から原告に「一緒に遊びにこんね」といった酔余のひやかしの言葉をかけたところ、原告が「お前達はどこの若いもんか、うちを誰と思ってるか、事務所までこい」など悪口反撃を加えたことに起因するものであることが認められた。また右四名のうち永野武は車内で眠り込んでいて事件の発生も知らなかったということであり、同人らの間には事前に原告に対する強姦等の悪質な意図があったとは認められない状況であった。
以上の供述結果から、本件暴力行為事件は、原告が主張するような単に謝罪を要求した事件ではなく、報復に出た犯罪であること、被害関係者らはいまなお後難をおそれていることが看取され、原告について調査した結果によれば、原告は右関係者の供述によっても明らかなとおり男勝りの激しい性格の持主であり、その背後には、かつて博徒親分として威勢をふるった父八木豊の暴力的力があって、罪証隠滅のおそれが強いと判断され、また、原告に対しては、原告が一度諫早署に出頭したのち、島原署の中島政行巡査部長が原告と直接会って、あるいは電話で数回池田事件の参考人として再度出頭してくれるよう要請したが「呼出しには絶対に応じない、逮捕状を持って来い。」などと言って要請に応じなかったいきさつがあり、暴力行為事件について任意出頭を求めても到底これに応じないことが見込まれた。
警察は以上のような事実と判断に基づき慎重に逮捕の必要性を検討した上で、前記被疑事実について令状を得て原告を逮捕したものである。原告が、本件逮捕をもって専ら池田事件の取調べのためにするものだとして摘示する点について、以下反論する。
① 逮捕状請求書の「逮捕を必要とする事由」に虚偽誇張の記載はない。八木一家は、厳格な定義の上では暴力団と指称できないかも知れないが、往時においてそのような存在であったことはあながち否定できないし、従って逮捕状請求当時においてもそのような要素の潜在していたことも否定できない。それ故林田次男は後難をおそれ事件後二年を経過してなお両親以外には住所を知らせていない状況にあった。また原告が数回にわたる任意出頭に応じなかったという点は前述のとおりである。
② 甲野太郎について逮捕状を請求したこと、その請求書に「被疑者が任意出頭の求めに応じないため」と記載したという点は原告主張のとおりである。同人については、原告と同様池田事件について何らかの関連があるのではないかと認められ、五回にわたり任意出頭を求め事情聴取をしたが、その供述は事実と矛盾する点が多く、さらに任意出頭を求めたがこれに応じなかった。かようなことから暴力事件について任意出頭を求めても到底出頭は期待できなかったので、逮捕状請求書にもそのような趣旨で記載した。
また、逮捕状の執行については、その必要性と妥当性等を十分に考慮し慎重に検討の結果、これを執行しなかったものである。
③ 原告に対する捜索は、暴力事件の証拠収集のために令状により行われたものであり、池田事件の捜査を目的としたものではない。その際に池田事件に関連があるのではないかと思料される物件を発見したのでこれを押収したが、これは右令状により差押えたものではなく、別途に任意提出を受け領置の手続をとったものである。
④ 原告に対する逮捕・捜索に池田事件の特別捜査本部員が当ったのは、当時島原警察署の捜査員の大部分は池田事件の捜査に従事し余力がなかったことと、原告の暴力行為事件は、池田事件の捜査本部員が聞き込み、関係者の取調べをしたといういきさつと、また池田事件との関連で不審点を解明する必要もあったことからである。
⑤ 原告の暴力行為事件の証拠資料収集に当った捜査員が、原告逮捕を至上命令として、事実を歪める捜査姿勢で臨んだということは決してない。原告の主張するところに即して言えば、林田次男の供述調書は、暴力事件の被害者として同人の供述に基づき、これを作成したものである。調書添付の図面は、林田の妻が、林田から「図面がうまく書けない。家にあるのと同じ包丁だからお前が書け」と言われ、包丁の図だけを書き、これに林田自身が長さ等の数字を書いて、同人の意思によって作成されたものである。
林田キサエの調書についても、同女の取調べに当った北川真佐夫巡査が、原告が警察に届け出たものか否か全く関知せず、同女の供述を録取したもので、「捜査官にわかっていたはずなのに云々」は当らない。
(三) 勾留の必要性について
警察は、原告主張のとおり逮捕当日の九月一三日と翌一四日島原警察署において逮捕事実について原告を取調べたが、原告は「昭和四二年八月末から九月始めごろ、林田次男が両親と八木舘を訪ねて来たとき、林田次男に対し、お前もけがをしてみろ、と言って同人の顔面を一、二回殴ったことはある。林田にも自分と同じく唇を切らせ苦痛を味わわせてやるため、八木舘の従業員に、包丁を持って来い、と言ったことはあるが、実際包丁で切りつけたり飛出しナイフを突きつけて脅したりした事実は全くなく、その他暴行脅迫を加えたことはない。」旨供述し、被疑事実の大部分を否認した。右供述は、多数の関係者の供述と相反するうえ、関係場所の捜索でも使用したと思われる兇器を発見するに至らず、なお身柄拘束の上取調べを継続するのでなければ証拠隠滅のおそれがあるものと思料された。原告の勾留は右のような必要性に基づき、令状の発布を得てなされたもので、もとより違法不当なものではない。
(四) 身柄の移監と勾留中の取調べについて
(1) 身柄の移監
原告は、原告の身柄が九月一五日大浦警察署へ移監され、その後同署に勾留されたことをもって、警察が違法目的をもって逮捕勾留した証左のようにいうが、決してそのような理由によるものではない。すなわち、警察は当初、原告の身柄は事件と共に長崎地検島原支部に送致し、引き続き島原において取調べを行うべく同支部検察官にもその旨連絡していたのであるが、つぎのような事情で事件および身柄を長崎地検本庁へ送致することにした。すなわち、その理由の一つは、警察が九月一三日午前九時三五分島原市内で原告を逮捕すると同時に、各報道機関は、独自の立場で活発な取材活動を行い、島原署の調室周辺を各社の記者が終日見張り、しかも同日午前一一時頃には、一部の記者が閉鎖中の取調室のドアを勝手に開いて取調中の原告の写真を撮影するというような行動に出るなど、取調べの環境が極めて悪い条件のもとにおかれ、取調べが著しく困難な状態になったこと、その理由の二は、島原市内には刺殺された池田辰巳と親交のあった暴力団三宅組と一文字組が勢力を張り、池田事件発生直後から新聞の報道やちまたの噂等により同組員らの異様な動きが察知され、今後の取調べ、検察庁、裁判所等への身柄の押送等に際して、これら暴力団員による不測の事故発生も危惧され、さらに今後の原告の身柄勾留の必要性を考えた場合、当時島原拘置所には、別事件で一文字組々員と目されている鵜殿吉森ほか四名、三宅組々員と目されている東享ほか一名が拘置されていたため、原告に対して不当な圧迫ないし危害が加えられるおそれも十分あったこと、以上二つの理由から、報道陣の執拗な追及を回避し、必要以上の報道により原告が不当に人権を犯されることのないように配慮し、さらに反八木派暴力団関係者からの危害圧迫をさけて、原告の身辺保護をはかろうとの配慮から、事件および身柄を地検本庁に送致し身柄を大浦警察署に拘置したものである。
(2) 原告に対する取調べとその結果
(イ) 警察が原告を取り調べたのは、九月一三、一四日島原警察署において、九月一五日から同月二五日まで大浦警察署においてであるが、その間の取調べあるいは立会を行ったのは、橋本警部補、重水警部、渡部巡査部長の三名である。そして、主として暴力事件の取調べは橋本警部補が行い、池田事件に関する事項は重水警部が取り調べた。重水がこれを担当したのは、原告のいうように同人が池田事件の自動車の捜査を担当していたためという格別の理由によることではなく、適任者の配置ということにほかならない。また当時の捜査段階において、自動車の捜査が最も重要な事件解決のカギというものでもなかった。
(ロ) 原告は逮捕後の取調べにおいて、前述のとおり被疑事実の大部分を否認したので、勾留後も各関係者の供述との不一致点、特に兇器の処置などについて取調べを継続した。しかし、原告は「そのようにやったかも知れん。」などとあいまいな供述を繰り返すのみで、そのため捜査は進展せず、取調べも反覆され長びいたが、ついに九月二五日まで供述の進展はみられなかった。
(ハ) 別事件たる池田事件についても原告には多くの不審な点があったので、それらの事項についても、暴力事件について取り調べるかたわらこれとあわせて事情を聴取した。池田事件に関して原告を取り調べたのは、のちに詳しく述べるとおり、原告が事件と何らかの関連ありと信ずるに足る十分な理由と根拠があったからであり、かつこの点の解明も緊急を要することであったからであるが、決して池田事件に関してだけ取り調べたということはない。
(ニ) なお、原告は、以後検察官において独自の取調べを行うということで、九月二五日午後七時五〇分浦上拘置所へ移監され、その後警察の取調べは行われていない。右原告の身柄の移監が、原告の弁護人から九月二四日なされた別件逮捕勾留を理由とする準抗告申立によるものでないことは、右申立に対しては翌二五日却下の決定があったことからも明らかである。
(五) 池田事件に関し原告を勾留中取り調べた理由について
警察が原告を池田事件と関連あるものと判断するに至った事情とその勾留期間中この点について取り調べた事情はつぎのとおりである。
(1) 事件の発生と日野コンテッサの検問
原告主張のとおり、昭和四四年七月一〇日午後七時一五分ころ、長崎市伊良林一の四六島崎巌方前路上において、帰宅途中の県会議長池田辰巳(六一才)が何者かに背部から刺殺されるという事件が発生した。警察は、直後の七時一九分ごろ事件発生の電話通報を受理し、県警察本部指令室からの無線指令によって現場に到着したパトカーから、七時三〇分殺人事件である旨の報告を受け、ついで七時三五分新中川町に居住する某(特に氏名を秘す)から「午後七時一五分ごろ現場付近を通行中、大場金物店奥の路地から年令三〇才位、身長一・七〇メートル位、体格がっちり、こげ茶色のスポーツシャツ、黒っぽいズボンの男があわててとび出して来て、大場金物店前の川端通りに停車していた白色系統の日野コンテッサ九〇〇に飛び乗り、中川町方向に走り去った」旨の申告があったので、午後七時三六分長崎市内の五署と時津、諫早、大村ならびに沿道の各警察署に日野コンテッサの検問を指令した。
右検問手配をうけた諫早警察署は諫早市宇都町で検問中、同署巡査部長以下三名が、同日午後七時五五分長崎方向から大村方向に向う手配車に類似した甲野太郎運転の日野コンテッサ九〇〇(長崎五す二六四三、車体白系統)を発見して停車させ、運転免許証の提示を求めて約二〇分間職務質問を行った。その車の助手席には、小柄でやせ型、色浅黒、髪を長くして肩までたらし、眼がつり上り化粧なく、濃紺半袖シャツに同色のブラウスの女が同乗していたが、その女は、住所氏名を聞いても答えず、反抗的であった。なおその際助手席に白色角型の手提カバン、つぼめた黒のコウモリ傘を載せているのを警察官が目撃した。
また同日午後八時三三分大村警察署巡査三名が、大村市陰平郷の国道で検問中諫早方面から進行して来た甲野太郎運転の日野コンテッサを発見停止させて、運転免許証の提示を求め職務質問したが、助手席には宇都検問所において目撃されたと同一の女性が同乗していた。
(2) 日野コンテッサの同乗者が原告であることの確認
大村警察署の検問員一ノ瀬巡査は、七月一〇日夜の甲野運転のコンテッサに同乗していた女性について顔に見覚えがあったので、念のため同月一七日大村八木舘に立入り調査したところ、この女性が同舘にいるのを目撃、原告であることを確認した。
また、七月二七日任意取調中の原告の面割りを諫早警察署の検問警察官に行わせたところ、検問当時甲野の日野コンテッサに同乗していた女性と同一人物であることが確認された。
更に、甲野太郎については、七月二六日大浦署において取調中、諫早、大村両警察署検問官に面割りを行わせた結果、七月一〇日の夜助手席に女性を乗せ、日野コンテッサを運転して検問にかかった人物に相違ないことが確認された。
(3) 甲野太郎と原告の関係
警察が捜査したところによれば、甲野太郎と原告は単なる顔見知り程度の関係ではない。甲野は昭和四二年ごろ島原松竹舘の運転手として原告の下で一ヶ月くらい働いたが、当時双方とも好意を持ち、その後も二人は将来結婚することを考えて関係を持ち続けていた。すなわち、昭和四四年正月ごろと三月ごろ、甲野は両親に対して原告と結婚したい気持であることを打明けたこと、両親はこれに反対したところ、甲野は「結婚させてくれないのなら親の下には居らん。家を出る。」というので、両親の方でも仕方なく黙認した形になっていることは、甲野太郎およびその両親の供述によって明らかであり、甲野と原告が昭和四二年以降数十回にわたり某ホテルを利用していることは、ホテルの管理人らにより確認されている。
(4) 甲野太郎および原告の任意取調べに対する供述と不審点
池田事件の捜査官は、池田事件発生から日を得ない七月二一日、二二日、二六日、二七日、二八日の五回にわたり甲野に任意出頭を求めてこれを取り調べた。同人は、原告との関係について、七月二二日の第二回取調べまでは単なる顔見知りであると供述していたが、某ホテル宿泊等の事実が判明するに及んで、原告とは二年位前から恋仲にあり、結婚の意思で交際し、その間右ホテル等で度々情交関係を結び、池田事件の発生した日の前日に当る七月九日の晩も、原告が福岡から帰ったあと二人で同ホテルに行き四時間程休憩した、と原告との間に親密な関係があることを認めた。また七月二七日の取調べの際、検問にかかったとき同乗していた女性が原告であったことを一応認める供述をしたが、調書に録取しようとしたところ、前言をひるがえした。
七月一〇日池田事件当日の甲野の行動については、捜査本部は、本人の供述に基づき、その裏付捜査を行ったが、甲野の供述を信用するに足る証明は一つとして得られなかった。
これに対し、原告は、七月二七日諫早署に任意出頭を求めて取り調べたところ、「甲野太郎は二、三年前に映画舘の手伝をしてもらったので顔は知っている。甲野が自動車を持っていることは知っているが乗ったことはない。甲野太郎と最後に会ったのは六月末ごろで恋仲など特別な関係はない。七月九日には福岡から大村に帰ったが大村から一歩も外に出ていない。」と供述するなど、多くの問題点について秘匿し、あるいはことさら真実を述べない供述態度をとった。
(5) 池田事件との関連を想わせる手紙の発見
警察は、九月一三日原告の暴力行為事件に関して大村八木舘を捜索した際、原告から母親に宛てた手紙を発見、これを任意提出を受けて領置したが、その文面中に「池田の件は決して父がいろいろ申したのではありません。私一人で考え、父の反対者たるものは殺しても本望と心に決めた他理由はございません。」という文章のほか、不審と思われる点が数ヶ所あった。
(6) 別件勾留中取調べの必要性と適法性
以上のとおり、原告は池田事件の直接の犯行者ではないとしても、事件と何らかの関連がありもしくはなんらかの事情を知っているものとの疑いを抱かせるに十分な資料があった。従って、真実を追究すべき捜査官が、暴力行為事件で逮捕勾留中の原告から、同事件の取調べと平行して池田事件に関して事情聴取することは、むしろ職務上当然のことであり、適法な行為である。ましてや、警察はその取調方法については慎重な配慮を払い、その間弁護人の選任、弁護人との面接もなされており、なんら警察の取調べに違法不当はない。
3 報道機関に対する不注意による名誉侵害の主張について
警察(池田事件捜査本部)は、原告が甲野のコンテッサに同乗していた疑いに関し、原告が主張するようにこれを報道機関に発表したという事実はない。また、原告逮捕前に、新聞などが「島原市内の女性」とか「ナゾの女」などという表現で報道していたことは、警察も知っていたが、かような報道記事については警察はなんら関与していない。
池田事件は、全国にも類のない現職県議会議長刺殺事件として、発生当時から報道機関の取材活動には極めて活発なものがあった。これに対するに、警察は、捜査状況に関する発表にあたっては細心の注意をはらい、必要最少限度で、やむを得ない場合のほか極力発表をさけ慎重を期してこれを行ったのである。以下、主要な報道記事と警察のかかわりあいの有無あるいは警察のとった措置を具体的に詳述し、警察の報道機関に対する発表その他に違法不当のないことを明らかにする。
① 原告逮捕を報じる各新聞社の九月一四日付朝刊のうち四社の紙面は、原告の写真を掲載しているが、これは警察が提供したものではない。すなわち、うち三社の掲載した写真は警察の所持していないものであり、他の一社の写真は、九月一三日島原警察署で取調中の原告を、一部の新聞記者が閉鎖中のドアを無断で開いて撮影したものである。また、記事についても各社それぞれ違った内容になっており、この点からも警察が発表したものでないことは明らかである。
② もっとも、逮捕事実については、九月一三日島原署において捜査主任官が、また長崎署において捜査本部長が記者会見を行い、原告を暴力行為等被疑事件で逮捕し、三ヶ所の捜索を行ったことを説明しており、その際記者団からの「池田事件について取調べをするか。」との質問に対し「他に不審点があれば当然解明は行うことになる。」旨の回答をしたことはあるが、もとより原告が池田事件の犯人であるかの如き誤解をまねくような発言は全く行っていない。
③ 七月一〇日宇都および大村で日野コンテッサ運転中を検問した甲野太郎については、警察は極秘に捜査をすすめていたところ突然七月一七日ある新聞の朝刊に「県南部に住むコンテッサを持った殺し屋A(三〇才)」として報道されたが、これまた警察の発表によるものでなく、警察では漸く七月二一日から同人の任意取調べを開始したのである。
④ 九月一三日大村八木舘捜索の際発見領置した原告から母親宛の手紙についても、警察では極秘内偵中を九月二〇日某新聞朝刊に「有力な手がかり、父のため仕返しを、副議長の娘の手紙押収」という見出しで報道された。これは警察が発表したものではない。その内容も事実と相違している。この記事が報道されるや他の各新聞記者が捜査本部に押しかけ発表を迫ったので、誤った記事を掲載されては本人のために迷惑であると考え、要点のみを簡略に発表した。
⑤ 九月一八日午後九時五〇分ごろ大浦警察署取調室で原告を取調中、某新聞記者二名が取調室横の塀の屋根によじ登っているのを発見注意した。その他深夜から早朝まで捜査員の行動を追い、あるいは直接関係者の自宅を訪問するなど池田事件に対する各社の取材活動は異常なまでに積極的であった。このような各社の独自の活動によって取材報道された各記事については警察は全く関知しないところである。
⑥ 以上のような取材活動に原因する各社の誤解と誤報をさけるため、警察は毎日午後五時から六時の間に捜査幹部が出席して記者会見を行い各記者の質問に答えるようにしてきたが、その際もあくまで消極的で控え目な回答しかしていない。
以上のとおり、警察の報道機関に対する発表その他の措置には、原告主張のような注意義務違反はない。捜査の動きを報道機関から事前に察知され、これを報道されることは、捜査上著しい障害にこそなれ、なんら益するところはないという事理に照しても、警察が無用の発表をしたものでないことは明らかであろう。しかして、報道機関各個独自の報道の結果について、被告が責任を問われるいわれはない。
第三証拠関係≪省略≫
理由
一 はじめに
昭和四四年九月当時、原告は長崎県島原市内において映画舘三舘を経営する二六才の未婚の女性であり、また原告の父八木豊は長崎県議会副議長の職にあったこと、原告が同月一三日長崎県警察によって暴力行為等処罰に関する法律違反(以下「暴力行為」と略称する)容疑で逮捕され、引き続き同月一六日から同三〇日まで勾留され、逮捕の日から同月二五日までの一三日間警察の取調べを受けたこと、は当事者間に争いがない。
ところで本訴請求は、主として右逮捕と勾留およびその間の取調べの違法であることを理由とするものであるが、まず本件逮捕勾留に関する事案を概観したのち、違法性の存否について判断を加えることにする。
二 事案の概要
1 原告逮捕に至る経緯
(一) (池田事件の発生とその捜査) 昭和四四年七月一〇日午後七時一五分ごろ長崎県議会議長池田辰巳が何者かに刺殺されるという事件が発生し、これに対して警察は、事件直後の聞き込みから、犯人は白っぽい日野コンテッサ九〇〇に乗って現場から逃走したものと断定し、直ちに長崎市内および近隣各警察署に同型車の検問を緊急手配したこと、同日夜諫早警察署管内宇都検問所ほかにおいて、南高来郡国見町に住む工員甲野太郎が日野コンテッサ九〇〇に女性一人を乗せて検問にあったこと、その後の捜査で警察がこの甲野運転の日野コンテッサに同乗していた女性が原告ではないかとの疑いを抱き、甲野および原告が池田事件に何らかの関係を持つものではないかとみて同人らに対する捜査を開始したことは、いずれも当事者間に争いがない。そして、≪証拠省略≫を綜合すると、池田事件に関する警察の初動捜査の状況、事件当日の甲野太郎運転の日野コンテッサ検問の状況の詳細は、被告主張(「被告の答弁および反論」のうち、2(五)(1)「事件の発生と日野コンテッサの検問」の項参照)のとおりであることが認められるほか、原告逮捕に至るまでの同事件に関する捜査とその進展の状況はおおむねつぎのようなものであったと認められる。
① 警察は、事件発生後直ちに長崎警察署に特別捜査本部を置き、事件の重大性に鑑み県警の捜査陣のほとんどを動員して捜査を開始したが、犯行前後の状況からして計画的殺人事件と判断したものの犯行現場には犯人検挙の手がかりとなる遺留品その他の証拠はなく、犯行直後日野コンテッサ九〇〇に乗って現場から逃走した犯人と思われる男を目撃したという者から得られた供述を唯一の手がかりとするしかなかったため、事件当日検問にかかった車両をはじめとして県内外の同型車の持主について一々アリバイ捜査をすすめる一方、刺殺された池田議長については、県政界における派閥争いや、県内土建業界における利権争い、私生活上の怨恨など犯行の動機となりうる原因がいくつか考えられたため、これら動機の面などから広範な捜査体制を敷き、暴力団関係者、疑わしいと思われる前歴者等から事件当日とその前後の行動について事情聴取を継続した。
② 捜査本部は、諫早市宇都町および大村市陰平郷において検問にかかった前記甲野太郎についても、同年七月二一日国見署へ出頭を求めて本格的に取り調べ(甲野はこれよりさきの同月一四日にも国見署へ出頭している。)、その後同月二二日、二六日、二七日、二八日の都合五回にわたり、同人から事件当日およびその前後の行動や検問当時コンテッサに同乗していた女性等について事情聴取した。捜査本部はすでに同月一七日ごろ、大村市陰平郷における検問に従事した大村署の巡査一ノ瀬好郎から、「甲野運転の日野コンテッサに同乗していた女性が原告ではないかと思われたので大村八木舘に立入り調査したところ、八木晴恵(原告)が入場券受取所にいて、検問時同乗していた女性と同一人物であることを確認した」旨の報告を受けていたが、警察の追及に対し甲野は、事件当夜の行動について、国鉄長崎駅付近で映画を観ての帰り、長崎市内で面識のない女性から大村まで乗せてくれと頼まれて同女を乗せて帰る途中宇都および陰平郷で検問にあったものだと答えて、助手席に乗せていた女性が原告であることを否認したが、原告との関係については、はじめ、顔見知り程度と言い、のちに、昭和四二年当時島原松竹舘の運転手として原告の下で働いていたことから現在まで度々肉体関係を持ち結婚を考えている仲であること、事件前日の七月九日も二人でホテル鈴鹿荘を利用したことを認めた。ところが、甲野の事件当日の行動に関する供述には裏付捜査の結果と符合しない点やあいまいな点が多く、殊にコンテッサに同乗していた女性の送り届け先等については聞込みによるもそれらしい裏付けも得られず、また当該女性は宇都検問所における検問の際、係官から氏名を尋ねられたがこれを黙秘し、終始検問官に対し反抗的あるいはことさらこれを無視するような態度をとった、というようないきさつもあって、捜査本部は、甲野は事件当夜原告を大村八木舘に送り届けながら、池田事件について両者がなんらかの関係を持っているために、同乗女性が原告であることを秘匿しようとしているものと判断した。しかして、甲野の身辺捜査をすすめるうち、同人は事件前数日前から勤務先の板金工場を欠勤し、事件前日の九日の夜は自宅へ帰らず、一〇日夜遅く帰宅したが、一一日の夜も外泊し、一二日には本人の留守中家人の知らない松原と名乗る女性が電話をしてきたり、夜に入って一人の女性(右と同一人か否か不明)が訪ねて来たりなどといった尋常でない生活態度が認められ、両親に対しては、その反対にもかかわらず、かねてから原告との結婚を希望し、原告も甲野に度々電話したりその自宅を訪ねて来るという交際関係であったことが判明した。
捜査本部は、事件発生直後から、事件は県政界の内紛に起因する可能性ありとしてこの方面の捜査をすすめていたが、捜査本部の調査によれば、原告の父八木豊は、戦前から昭和三〇年ごろにかけて刺殺された池田議長と共に、当時県下に博徒の大親分として聞こえた宮崎久次郎につながる博徒として次第に勢力を伸ばし、県下映画興業界では相当の地盤を築いて、昭和三〇年県政界へ進出したが、その勢力拡張の過程では、八木一派と目される者の中から組織の抗争に起因する殺傷事件に加害者、被害者として関係するものも多く、八木豊自身も傷害、恐喝、賭博等度重なる前科前歴があり、新しくは昭和三七年にも恐喝、傷害、威力業務妨害等の罪で長崎地方裁判所で懲役二年(五年間執行猶予)に処せられたという経歴の持主で、県政界においては、かねてから池田議長と勢力争いを演じて相互に反目し合う仲であったが、昭和四四年二月の県議会議長選挙で対立して以来、その反目の度合は急激に深まっていた。そして、原告は、八木豊の妻八木フジヱの連れ子で、昭和四一年頃豊の養女として入籍されたが、幼い頃から豊の身近で育ち、かねてから豊の県議選の選挙運動等には熱心であった。
捜査本部は、概略以上のような被害者池田と八木豊の関係、八木豊の前歴と暴力団関係者とのつながりの可能性、原告と甲野の特殊な関係等から推して、八木親子あるいは甲野らに池田殺害に関与する動機は十分ありうると判断し、懸命の捜査にもかかわらず、事件後二週間を経過してなお他にこれという事件解明の糸口になるような手がかりが発見されないこととあいまって、甲野および原告の追及を事件解決のために、当面最も有力で、重要な事項とみなして捜査の主力をこれに注ぐことにした。
そこで捜査本部は、原告に対し任意出頭を求め、これに応じて七月二七日諫早署へ出頭した原告から事件当日及びその前後の行動、甲野との関係等について事情を聴取しようとしたが、原告は、「父豊のことを聞かれると思って出頭した、父があらぬ疑いをかけられるのは心外なので、父の弁明のために出頭したのに、自分を犯人扱いにする取調べには応じる必要がない。」として、事情聴取の途中で席を立って帰ってしまった。しかし、このとき、事件当夜宇都検問所で甲野運転の日野コンテッサについて検問した諫早警察署の巡査部長豊水淳一ら三名に取調中の原告について面割り確認させたところ、同人らはいずれも、甲野のコンテッサに同乗していた女性に間違いない、という報告をしたこと、他方原告は、取調官に対し、甲野とは面識はあるが特別な関係はなく、事件当夜同人の日野コンテッサに乗ったこともない、と述べたことなどから、甲野の車に同乗していた女性が原告であることについてますます確信を強める一方、原告および甲野が事件当夜の明らかとも言える行動をことさら秘匿しようとするには、事件とかかわるなんらかの重大な理由があるからではないかとの疑いも一層深くした。
捜査本部は、その後も島原署を介して原告に対し事情聴取のため出頭を要請したが、原告は、行く必要はない、どうしてもというなら逮捕状をとって来い、などと言って、これに応じなかった。
③ 甲野についての任意取調べは前記五回の取調べで限界に達し、供述の進展も見られなくなり、捜査本部はその後も同人および原告の身辺捜査を継続したが、同人らを池田事件の被疑者として、あるいは事件について知るところのある者と断定するだけの客観的証拠を見い出せず、他にこれという手がかりのつかめぬまま日時を経過し、例えば八月一九日付長崎新聞は、「濃くなった迷宮入り」という見出しの下に、捜査はいよいよ難航し、捜査本部が県下二六〇台のコンテッサについて調べ直しをはじめたことと、捜査員を半数に減らすことに決定したことを報じる、という情況に立ち至った。
④ 同年八月二六日長崎署は「県政新報」編集発行人南条斉を二年前の恐喝容疑で逮捕したが、同人は反池田派議員と親密な関係にあり、池田議長一派に対し、県政新報にいやがらせの記事を載せたりしていたし、また甲野とも顔見知りのうえ原告とは親しい関係にあるとみられていた。一部の新聞は、南条の逮捕を報じる記事の中で「池田事件の背後関係の重要なカギを握っているとみて本格的取調べに入る。」と報道した。南条は、その後勾留されたが、同人からも池田事件について犯人検挙のキメ手になるような供述資料は得られなかった。
原告逮捕前の池田事件に関する捜査状況については以上のように認められ、これら認定あるいは推認を左右するに足る証拠はない。
(二) (原告にかかる暴力行為被疑事件の探知とその捜査)原告逮捕の基礎となった暴力行為被疑事実は、池田事件についての聞き込み捜査中得られた情報にその捜査の端緒があることについては当事者間に争いがないが、≪証拠省略≫を綜合すると、右被疑事実の聞き込みから原告が逮捕された日の前日(昭和四四年九月一二日)までの捜査の経過とその状況はつぎのとおりであることが認められ、右認定を左右する証拠もまたこれ以上にどのような捜査が行われたかを具体的に明らかにしうる証拠もない。
① 八月一六日ごろ、池田事件に関し島原市一円を聞込み捜査中(原告や甲野の身辺調査中であったと思われる。)の捜査本部員長岡松治(県警本部捜査第一課強行犯係長)は、同市内のバーテンから二年程前に原告が島原市内の青年を痛めつけたことがあるということを聞き込み、原告経営の映画舘の従業員であった者や現在の従業員らに当って捜査した結果、その被害者が林田次男であることが判明し、島原署の事件簿等から、ちょうど二年前の昭和四二年八月一七日未明夜道を単身帰宅中の原告を自動車に乗って通りかかった林田次男ら数人がからかい、その際林田が原告の顔面を殴って口唇に傷を負わした事件があり、林田がその後傷害罪で処罰されていること、原告が林田をいためつけたというのは、林田から傷を負わされたことについて、林田を前後二回にわたり自己の経営する島原松竹舘(のち八木舘と改称)に呼び出し、刃物を用いるなどして報復をはかった事件であるらしいことを探知した。
② 八月一八日ごろ、長岡松治は、原告にかかる殺人未遂被疑事件の探知として上司に報告書を提出し、直ちに池田事件の捜査本部員が、島原署応援派遣捜査員の名の下に、本格的捜査を開始した。
③ 八月二〇日県警本部巡査部長西田隆、同巡査北川真佐夫は、林田次男の両親である林田秀夫、同林田キサエについて、島原市親和町の自宅において事情を聴取し、供述調書各一通を作成した。
④ 八月二四日長岡松治は、横浜市鶴見区のアパートに林田次男を訪ね、前後二回にわたる被害の状況と前後の事情を聴取し、供述調書二通を作成した。
⑤ 事件の発端となった昭和四二年八月一七日未明の原告被害事件の際、林田次男と一緒に自動車に乗っていた永野武については、八月二一日長崎警察署巡査前田徳好が、同北田清八郎については八月二二日県警本部巡査部長新山敏朗が、同平坂功については九月二日同巡査部長が、それぞれ原告被害当時の模様とその後の原告と林田の言動に関して事情を聴取し、供述調書を作成した。
⑥ 長崎警察署巡査部長渡部幹雄は、八月三一日付で島原警察署長宛捜査報告書二通(うち一通は、「暴力行為等被疑者八木晴恵の余罪等について」と題し、「原告の生活背景が暴力的であるところから余罪について捜査したところ、同業者や近隣に対し、あるいは県議選の際父豊の対立候補者に対し、いずれも威圧的言動があったという原告の性格をあらわす事案三件と、逮捕後捜査継続の必要があると認められるところの、契約不履行のあったストリップ劇団に対する脅迫事案がそれぞれ聞き込みによって判明した」という内容のものであり、他の一通は、「八木晴恵にかかる暴力行為等処罰に関する法律違反被疑事件立証のための捜索箇所ならびに被疑者の暴力的背景について」と題し、「原告が兇器として使用した登山ナイフ様の刃物ならびに暴力団体を仮装して脅迫した事実を立証するための文書類を差押える必要があるところ、原告の住居は一応島原市中堀町の島原松竹舘内であるが、同人は実母八木フジエの管理権内にある大村八木舘、父八木豊の居住する諫早映劇等をひんぱんに往来し自宅同様にしているから、島原市内の原告が支配する映画舘のほかこれらの場所も捜索する必要がある。」旨の報告と、八木豊の博徒としての戦前からの経歴の詳細、原告がこうした生活環境の中で成長してきたものである旨の調査報告を内容とするもの。)を作成した。
⑦ 前記長岡松治と新山敏朗は九月三日付で、「強制捜査の必要性について」と題し、第一に七月二八日付島原警察署中島巡査部長の報告書を援用して原告がこれまで再三にわたる呼出しに応じないことから推して本件呼出にも応じないと思料されること、第二に、原告の背後には八木豊の威力と権勢があり、原告はその支配する映画舘においては横暴そのもので配下に三浦誠を従えている、その気性は映画舘の従業員の誰もが男勝りと称するところで、元従業員らも本件に関する供述をしぶり、あるいは供述調書の作成になかなか応じないなど、被害関係者を含めて参考人の誰もが一様に捜査に協力したことが原告に知れるのを怖れている点に照して、任意捜査では原告がこれら証人、参考人を威迫強要するおそれがあること、以上二点を内容とする島原警察署長名宛の捜査報告書一通を作成した。
⑧ 池田事件捜査本部は、以上の捜査資料に基づいて、被疑事実を被告主張(「被告の答弁および反論」のうち2(二)(2)「探知した被疑事実」の項参照)のとおり確定し、被疑事実の存否および逮捕の必要性判断の資料として、ほぼ被告主張(右2(二)(3)のうち(イ)、(ロ)、(ハ)の各項参照)のとおりの供述記載のある被害者林田次男、参考人林田秀夫などの供述調書のほか前記長岡松治ほかの捜査報告書を援用し、逮捕状請求書に逮捕を必要とする事由として「被疑者は暴力団八木一家の首領の娘であって証拠隠滅をはかるおそれがあり、しかも数回の任意出頭の求めに応じない。」と記載して、逮捕の前日すなわち九月一二日島原警察署警部(刑事課長)井手宣明の名で島原簡易裁判所に対し、前記被疑事実について逮捕状を請求するとともに、原告の自宅とこれに隣接する島原松竹舘、犯行場所である島原八木舘(犯行当時は島原松竹舘と称していた建物)のほか大村市本町所在の大村八木舘の以上四ヶ所について兇器、関係文書等を目的物件として捜索差押令状を請求し、同日各令状の発付を得た。
(三) (原告に対する逮捕・捜索令状の執行状況)同年九月一三日原告が、右逮捕状(および捜索令状)の執行を受けたことは、当事者間に争いのないところであるが、≪証拠省略≫を綜合すると、逮捕、捜索差押の状況に関しつぎの各事実が認められる。
① 逮捕、捜索は池田事件捜査本部員が中心となり、島原、大村署員がこれを応援するという形で行われた。
島原市における強制捜査については、池田事件の捜査主任官柿森美津雄をはじめとする十余名に上る捜査官が前日の一二日夕方から島原市に集まり、翌一三日午前八時ごろからまず捜索に着手した。
② 島原市中堀町の原告の自宅において、捜索の結果、刃渡り一七、八センチメートル、刃幅三センチメートル前後の刺身包丁二本が押収された(これはその後県警鑑識課の鑑定に付された)が、それ以外に押収すべき物件は発見されなかった。
③ 右自宅における捜索差押に原告を立会わせたのち午前九時三五分ごろ原告に対する逮捕状を執行した。
④ 大村市本町の大村八木舘内原告の居室における捜索では、父の反対者たる者(池田)は殺しても悔いない、など池田殺害に原告が何らかのかたちで作為したことを裏づけるように見える文面を含む原告が母親に宛ててしたために便箋一一枚入りの封書一通、宇都検問所において検問官が甲野運転のコンテッサに同乗していた女性が所持しているのを目撃した白色手提かばんに類似する白色ショルダーバッグ一点を発見、原告の実母八木フジエから任意提出を受けてこれを領置した。
2 逮捕後の原告に対する取調べの状況
事件が逮捕後三日目の一五日長崎地方検察庁本庁へ送致されたのに伴い、原告の身柄も島原署から長崎市内大浦署へ移監されたこと、原告が逮捕の基礎となったと同一の被疑事実で翌一六日大浦署代用監獄に勾留され、同月二五日長崎刑務所浦上支所へ移監されたことおよびその間池田事件捜査本部に所属する警察官が原告を取り調べたことは、当事者間に格別争いがない。
≪証拠省略≫によれば、原告に対する取調べは橋本牛春警部補、重水徳郎警部が当り、常に渡部幹雄巡査部長が立ち会ったこと、橋本は暴力事件のほか池田事件関係も併せて、重水は専ら池田事件関係でのみそれぞれ原告を取り調べたこと、警察の取調べは九月一三日逮捕当日から同月二五日までの一三日間毎日行われたが、原告は、逮捕は池田事件のためだろうと取調べに反発し、暴力行為事件については、逮捕当初から、林田が両親と謝りに来た際、一度林田の顔面を一、二回殴打した事実は認めたが、包丁や飛出しナイフをもって切りつけたり脅迫したという被疑事実についてはこれを否認し、池田事件に関しては、事件当夜甲野運転のコンテッサに同乗していたことその他事件とのかかわり合い一切を否認し、捜索の際発見された手紙については、かつて池田に対して殺してもよいという気持を抱いたことはあったがただそれまでのことだと弁明し、取調べの回数を重ねてもその供述にはついに最後まで見るべき進展がなかったことが認められる。その間の具体的な取調べ状況の認定資料となりうる証拠は、原告本人の供述を除けば前掲渡部幹雄作成にかかる取調日誌以外に見当らないところ、この取調日誌は、≪証拠省略≫によれば、作成が義務づけられている正規の文書ではなく、原告の身柄拘束後四日目の同月一六日ごろになって重水の指示により参考までに作成された資料で、事件の形式上の所管署である島原署の署長の閲読はもとより池田事件捜査本部の上司の閲読あるいは決裁も経ていない文書だというのであり、これを検分するに作成者渡部幹雄の筆跡は、同人が当時作成したものであることが確実な捜査報告書その他本件記録中の当時の同人の筆跡に照して、一段練達した形跡があり、その他文中の文言、作成者の肩書表示など作成年代の隔たりを疑わしめる(後日作成され、したがって多少作為的要素が入っている疑いを抱かせる)点があって、これのみによって逮捕勾留中の原告に対する取調べの状況を認定することは若干問題がある。しかし、その作成は一応は捜査当時のメモと記憶に依っていると認められ、他に具体的認定に役立つ証拠もないので、右取調日誌によって前記期間中の原告に対する具体的な取調べの状況を摘示してみるとつぎのとおりである。
① 一日の取調べは二、三回に分けられ、おおむね午前九時半から一〇時半の間に開始され、午後九時から一〇時半ごろまでに終っている。日誌上、勾留延長か釈放かで報道関係者がうるさく大浦署内を徘徊したため取調べ不能で雑談に終始したとされている九月二五日を除く同月一三日から二四日までの一二日間についてみると、警察による原告の取調時間(供述録取のための時間を含む、ただし休憩、食事等の時間は当然除く。)は、合計約四、九一五分(八一時間五五分)で、一日平均六時間五〇分となる。このうち取調時間の最も長いのは、二二日の九時間一五分(検察官による取調時間約二時間を含めれば、二〇日の一〇時間四〇分)で、最も短いのは二四日の四時間三〇分である(ただし、二四日は別途検察官の取調べが三時間二二分これに加わる。ちなみに、大浦警察署に勾留中の検察官による取調べは、右二〇日と二四日の二回である。)
② 日誌上池田事件について取調べられた旨の記載が全くないのは、逮捕当日の一三日と翌一四日だけであるが、二四日までの同事件との関連で取り調べられたことが明白な時間および日誌の記載から取調べられた可能性の高い時間を累計すると、約三、一〇〇分(五一時間四〇分)となり、したがって一日平均四時間一八分となる。
③ この間被疑事実たる暴力行為事件に関しては、橋本警部補によって逮捕当日と二三日の二回原告の供述調書が各一通宛作成されている。
④ 二三日の午前一一時五分から一一時三〇分までの間、原告は弁護人木村憲正と接見している(ちなみに、≪証拠省略≫によれば、原告は九月一七日以降弁護人以外の者との接見を禁止されていたことが認められる)。
3 原告の勾留延長および釈放までの暴力行為被疑事実に関する一般的捜査
≪証拠省略≫によれば、原告の弁護人木村憲正は、同年九月二四日原告の勾留はいわゆる別件逮捕を基礎とし、その勾留期間中池田事件の取調べを目的とする違法勾留であるとして、勾留取消の申立をしたが、これに対し長崎地方裁判所は翌二五日右申立を理由なしとして却下したことが、また≪証拠省略≫によれば、同裁判所裁判官は勾留期間満了日である右同日検察官の請求に基づき原告について同月三〇日まで五日間の勾留延長を許したことが、それぞれ認められる。そして、原告の身柄は前述のとおり二五日夕刻長崎刑務所浦上支所に移監され、その後は専ら検察官の取調べを受けるところとなった。
≪証拠省略≫によれば、担当検察官は、横浜地方検察庁検察官に被害者林田次男についての取調べを嘱託し、同地検検察官は、同月二七日林田から事情を聴取して供述調書二通を作成したこと、林田はその際検察官に対し、「八月二四日長岡松治警部補から事情聴取されたときは、多少酒を飲んでいたのと、他に出張するため時間が十分なかったので正確なことは言えなかった。昭和四二年八月三一日ごろと、九月七日ごろの二回原告のところへ行って謝罪した。最初のときは、映画舘の事務所で原告と相対したところ、お前も唇を切れとおどされ、何回も謝ったが、あやまってすむ問題か、と言って原告は従業員に包丁を持って来るように事務所の外へ向って大声をあげた。しかし、返事がなかったため、原告は、私に一寸待っておれと命じて事務所を出ていった。不安になって事務所の入口付近へ出て様子を窺うと、一〇メートル程離れたところにある売店のところを原告がこちらへ歩いて来ており、その右手にピカリと光るものが見えた。それはステンレス製の包丁のように見えたので、おそろしくなってとっさに逃げた。よくは見えなかったので、形や大きさは分らなかった。長岡警部補の取調べを受けたときは、よくわからないと言ったが、包丁だと思うなら適当に書いてくれと言われ、私が図面をうまく書けないというと奥さんでもよいと言われて包丁の図は妻が書き、寸法などは私が書き込んだ。そういうわけで、八月末のときは包丁を首のところへ突きつけられて、逃げたら刺し殺すぞと言っておどされたようなことはない。私は、その後おそろしくて家へも帰らないで友人のところなどを泊り歩いていたが、原告が自分の行方を探していると聞き、人を仲に立てて謝りに行ったらなんとかならないだろうかと思い、両親と相談の上、前田という人に頼んで親子そろって、九月七日ごろ島原八木舘へ出向いて謝罪した。原告は、二人だけで話したいと言って私だけを事務所に残して他の者に席をはずさせ、机をはさんで向い合うと、どうしても腹がおさまらんから唇を切らしてくれ、と言い私が黙っていると、切っていいか、と言って立ち上りズボンのポケットからジャックナイフ様のナイフを私の顔前につき出した。私がびっくりして、刃物を持った原告の右手をつかむと、原告は、はなせ、はなせと言いながら他方の手で私の顔を叩いたり足を蹴ったりした。私の助けを呼ぶ声に、事務所の外からかけ込んできた父や前田さんが、原告の手から刃物を取り上げたが、その直後も原告は私の顔を殴打した」という趣旨の供述をしたことが認められる。なお、暴力行為被疑事件に関し、原告の逮捕後原告に対する取調べ以外にどのような捜査が行われたかは、わずかに右検察官による被害者の取調べのほかは本件証拠上明らかでない。ただ、原告はその主張において、犯行現場の実況見分が行われたことを認めているが、≪証拠省略≫の取調日程に、実況見分への原告立会の記載が見当らない点に徴すると、それは九月二六日以降のことと思われる。
4 原告に対する暴力行為等被疑事実についての起訴処分と第一審判決
原告が、延長された勾留期間満了日である九月三〇日処分保留のまま釈放されたことは当事者間に別段争いのないところであるが、≪証拠省略≫によれば、原告は、釈放後一ヶ月余りを経過した同年一一月七日に至って、「昭和四二年九月七日ごろ、林田次男を島原八木舘に呼びつけ、ジャックナイフを脇腹付近に突きつけ(のち「顔前につきつけ」と訴因変更)、更にその顔面を殴打して脅迫し、もって兇器を示して同人に暴行脅迫を加えた」ことを公訴事実として大村簡易裁判所に起訴(略式請求)されたこと、右公訴に対し同裁判所は、正式裁判請求により、公判手続を経て昭和四七年五月二日、公訴事実中兇器を示して脅迫したという点は証明不十分として排斥し、謝罪に来た林田の謝罪態度が悪いことに立腹して平手で二回その顔面を殴打したという単純暴行の事実を認定して、原告を罰金一、〇〇〇円に処する(ただし裁判確定日から一年間刑の執行を猶予する)旨の判決を宣告したこと、原告はこれを不服として控訴し、右事件は福岡高等裁判所に係属するところとなったこと、以上の事実が認められる。
三 逮捕、勾留(勾留中の取調べ)の違法性について
1 前提判断
周知のとおり憲法三一条、三三条、三四条は、犯罪の捜査その他の国家権力の行使の過程において、国民の基本的人権が不当に侵害されるのを防止するとともにできるだけこれを保障する趣旨から、法律上の手続が履践されあるいは一定の要件が備わるのでなければ、何人の人身の自由も奪われないことを宣明し、これを受けて刑事訴訟法規は、逮捕、勾留その他の身柄拘束を伴う処分に関して多くの厳格な手続を規定して、国家権力の恣意的な発動や行使をきびしく抑制している。こうした基本的人権尊重の理念や、その実現のための諸法規は、国法秩序の上で最も基本的なものであるから、犯罪捜査の実際がいかに複雑困難にして流動的な実態をもつものであるとしても、そのことを理由として人身の拘束に対する規制を実質的に潜りぬけるような捜査方法は許されないし、その規制のために捜査上の利益ないし実効性が多少とも犠牲になることはやむを得ないところといわなければならない。
いわゆる別件逮捕とか別件勾留として問題にされるのは、捜査目的の追求に走るあまり、こうした人権保障のための法律上の手続的規制を実質的に潜脱し、法の理念ないし趣旨を没却するようなかたちで行われる逮捕、勾留、あるいはその身柄拘束を利用して行われる取調べが、違法な捜査方法と観念されるからにほかならない。そして、その違法性をめぐる評価の仕方が、刑事訴訟法規の解釈、殊に捜査というものに対する見解の分れるのに伴って、別件逮捕、別件勾留という言葉に盛られる意味内容も、被告の主張するとおりいまだ確定的なものではないが、さきに人身の拘束に関する憲法や刑事訴訟法規の意義について述べたような観点に立って考えると、被疑者の逮捕・勾留中に、その基礎となっている被疑事実以外の事件について当該被疑者を取調べること自体は法の禁ずるところではないから、被疑者が任意にこれに応じ、究極的に訴訟経済や被疑者の利益に寄与するものであるかぎり許されると思われるが、右の範囲を逸脱すればもはやその取調べは法の許容しないところというべきであり、ましてや、ある犯罪(甲事実)の捜査にあたって、いまだ証拠資料不十分のため被疑者として適法に逮捕することはできないが、捜査機関において被疑者もしくはこれに近い立場にあると見込まれる者がある場合に、当初から専ら右甲事実の捜査に利用する意図の下に、たまたま令状を請求するに足る証拠資料を収集しえた別の犯罪事実(乙事実)を被疑事実としてその者を逮捕・勾留し、その身柄拘束期間の大半を甲事実の捜査に利用するような捜査方法は、違法捜査類型としての典型的別件逮捕・勾留と評価するほかない。したがって、右のような方法による身柄拘束と、これを利用しての取調べは、明らかに被拘束者に対する不法行為を構成するものといわなければならない。
ところで、捜査官において、当初からその身柄拘束を専ら甲事実の捜査に利用する意図(以下これを便宜上「違法目的」という。)を持っていたか否かといった捜査官の内心にかかわる事実は、事柄の性質上直接これを認定することはむつかしい。現実問題としては、違法な意図によって逮捕した場合といえども、その基礎となった被疑事実自体について逮捕の理由と必要性が認められかつ身柄拘束中の取調べを通じてその違法目的が表面化しない場合は、結局右逮捕をもって違法な身柄拘束と評価することは困難であろう。すなわち、捜査官の違法目的の存否は、外形的事実を綜合的に判断してこれを決するほかないことになる。しかして、蓋然性に基づいて一般的に言えば、(イ)右違法な目的を捜査官が抱くに至るのは、当面の捜査の対象が重大な事件であり、かつ被疑者又はこれに近い立場にあることが見込まれる者があるにかかわらず、なおこれを令状によって逮捕するに足る証拠資料が得られないが、放置すれば逃亡、証拠隠滅等により検挙不能に陥るおそれがあるなどの理由で、結局身柄拘束を利用することによって自白または事件解決につながる供述を得るしかないというような捜査状況の下においてであり、(ロ)違法目的に出でた場合逮捕の基礎となる被疑事実は、専ら身柄拘束を形式的に適法化せんがために利用されまたは掘り起されるものであるから、本来のねらいとする事件となんら関連性がないかあっても乏しいものであり、また本来の事件との対比においても絶対的にも軽微な事件であったり古い事件であったりして、それ自体逮捕の理由や必要性に乏しい場合が多く、また被疑事実に関する証拠収集や逮捕状、勾留状請求手続の段階で捜査官の目的々作為が働く可能性が高く、(ハ)捜査官の違法目的は、身柄拘束後被疑者をその被疑事実についてではなく、専ら本来ねらいとする重大事件について取り調べ、極端な場合は手段を弄して自白を強要するといったかたちで表面化する、ということができよう。したがって、右(イ)の違法目的の発生を裏づける客観的事情と、(ロ)(ハ)の徴表的事実がいずれも認められる場合は、特段の事由がないかぎり捜査官は当初から違法な目的をもって被疑者を逮捕したものといってよく、そのような目的をもってなされた逮捕は、たとえ逮捕の基礎となった被疑事実についてみるかぎり逮捕の理由と必要性が認められるにしても実質的に令状主義に反して違法であるから、違法目的が取調べ段階で表面化したのが身柄拘束後数日を経た後であっても、逮捕の時点において直ちに被拘束者に対する不法行為となり、それは右逮捕を基礎とする身柄拘束の続くかぎり継続的なものと解するのが相当である。
2 本件逮捕・勾留の違法性について
本件の原告に対する逮捕・勾留(勾留中の取調べ)について、さきに事案の概要を明らかにする過程で認定した事実を綜合して判断すると、まさに右に述べたような違法目的に出た捜査方法に該当するものと認められる。以下問題となる点について若干の考察を加える。
(一) (原告逮捕当時の池田事件捜査の進展状況)池田事件の発生と捜査の状況について当事者間に争いのない事実およびさきに認定した事実によれば、(イ)池田事件発生から一ヶ月余りを経過した昭和四四年八月中旬から下旬にかけての時点で、長崎県警察の有する捜査力の殆んどすべてが傾注されたにもかかわらず、右事件の捜査は難航し、一般的に言って、事件解決の見通しは極めて暗いものになりつつあったこと、(ロ)捜査本部が、右捜査の過程で、事件当夜の検問の情況と、犯行の動機を構成する事情があり事件発生前後のアリバイがあいまいなことなどに徴して最も嫌疑濃厚とみた甲野太郎および原告と事件との結びつきの解明は、甲野については度重なる取調べやその身辺についての徹底的調査(≪証拠省略≫によれば、同人のコンテッサについては血液反応検査まで行われたことが認められる。)にもかかわらず決め手となる供述その他の証拠を得られぬまま失敗し、原告については第一回目の任意出頭による取調べの途中で拒絶にあって任意の取調べは望めないといった事情に立ち至っていたこと、(ハ)しかし捜査本部は、他にこれという手がかりをつかめなかったこともあって、当時なお、甲野や原告を目して池田議長殺害の犯行に直接間接何らかのかかわりのある者、そうでないまでも事件について重要な知識を持つ者という強い疑いを捨て切れず、原告らと事件の結びつきを究明することを当面の最も重要な捜査課題としていたことは、明らかである。以上のような捜査状況は、捜査関係者が原告に対する別件逮捕を企図することも十分ありうべき状況といわねばならない(ちなみに七月二〇日付長崎新聞は、物的証拠がないため捜査は難航しているが、捜査本部では、きめ手のないときはクロに近い者の別件逮捕も考えている、と報道している)。
(二) (暴力行為被疑事実についての原告逮捕の理由と必要性)原告逮捕の基礎となった被疑事実は、さきにみたとおりで、それは、(イ)昭和四二年八月三一日の出刃包丁を突きつけ「逃げてもお前を刺し殺すまで追いまわす。」などといって脅迫した事実、(ロ)同年九月七日飛び出しナイフを突きつけ唇を切らせろと脅迫した事実、(ハ)同日同じ機会に右ナイフで顔面に切りつけた(ただし傷害の結果発生せず)事実および(ニ)その際顔面を右手で三回殴打した事実、以上四つの事実に要約できる。ところが、検察官の捜査を経たのちの起訴段階では、右事実のうち(イ)および(ハ)の事実が公訴事実から完全に脱落し、さらに第一審判決においては、わずかに(ニ)の顔面殴打の事実が認定されたに過ぎない。右第一審裁判所の事実認定が妥当であるか否かは、当裁判所のよく知りうるところではないが、仮に第一審判決において認定された事実だけが当初から被疑事実であったなら、原告逮捕の必要性は到底認め難く、裁判官から逮捕状の発付を受けることはできなかったであろう。公訴事実が判決において縮小された範囲で認定されることは、刑事訴訟の性格上一般に当然起りうることであるとしても、逮捕の基礎となった被疑事実が、一五日間に及ぶ勾留を経たのち更に一ヶ月余りを経過した起訴の段階で、その主要な半分が脱落したという事実は、そのこと自体、警察官による逮捕状請求前の証拠収集方法や「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の存否に関する判断に問題があったことを窺わしめる。
しかして、原告逮捕前長岡警部補によって得られた被害者林田次男の供述記載内容は、その後の検察官の調べの段階で前記(イ)の被疑事実を否定するまでに変っており、これは取調べがずさんであったか、あるいは一定の犯罪を構成する事実を供述者から引き出すという捜査官の目的意識が過度に作用した疑いを残す。すなわち、原告が主張するように原告逮捕という至上命令に本件被疑事実についての捜査姿勢が歪められたことの反映だということもあながち否定できない。思うに、池田事件の捜査がいまだ解決の糸口を求めて懸命に続けられているさなか、緊急性も池田事件との関連性も全くない二年前の軽微な事件について被害者から事情を聴取させるため、捜査本部の一員である長岡警部補を長崎からわざわざ横浜まで派遣したということは、池田事件捜査本部が、任意出頭に応じない原告逮捕を当面の至上課題としていたこと、したがって捜査本部の命を受けた各捜査員らの暴力行為被疑事実に関する捜査も、被害者林田の取調べに限らず、物の関係者らの取調べおよび供述録取の段階において多少なりとも逮捕目的に奉仕するよう作為的に行われたことをうかがわせるのである。
逮捕の必要性についても問題がある。一般に、強制捜査によるか任意捜査によるかの選択は、結局捜査官の判断と選択に委ねられてはいるが、全くの自由な裁量に委されているわけではない。客観的に逮捕を必要とする事由、すなわち被疑者の住居が不定で身柄を拘束しなければこれを取調べることが著しく困難であるとか、証拠隠滅、逃亡のおそれがあるとか、正当な理由がないのに出頭の求めに応じないとかいった相当の事由のあることが要求される。
原告に対する逮捕状請求書に逮捕を必要とする事由として記載された「被疑者は暴力団八木一家の首領の娘であって証拠隠滅をはかるおそれがあり、しかも数回の任意出頭の求めに応じない」という表現のうち、原告が暴力団八木一家の首領の娘であることは、証拠隠滅のおそれを裏づける一事実として記載されたものと思われるが、果して原告について、証拠隠滅のおそれ及び任意出頭の求めに応じないという事由があったか否かについて検討してみよう。
まず、証拠隠滅のおそれについてみるに、当時原告の父八木豊を首領とする暴力団八木一家といえる組織あるいは団体が存在していたと認められる証拠はない。林田次男やその両親らの捜査官に対する供述調書によれば、被害当時林田次男やその家族が、原告を暴力団的威力を背景に持つもののように畏怖していたこと、原告が当時林田の所在を追求して、その実家へ自から出向き、その際応待に出た林田の父親と口論したことがあることは認められるが、原告や原告の下で働いていた三浦誠らが、暴力団的組織あるいは暴力団的威力を背景に林田らに威迫を加えたというような事実は認められない。要するに、原告の気性の激しさと父親八木豊の過去の経歴、当時の県政界における地位等から林田らに原告に対する漠然とした畏怖心がかなり強くあったというにとどまる。そして、二年後の逮捕状請求の時点では、林田は横浜市に居住していて原告はその所在すら知らなかったのであり、原告が警察の捜査を知ったからといって林田やその家族に対し罪証隠滅工作をする可能性は極めて乏しいものであったと思われる。したがって、任意捜査によったのでは証拠隠滅のおそれありとして残るのは、犯行に供された兇器の隠匿と犯行当時映画舘の従業員として犯行の一部を目撃していた者に対する隠滅工作であるが、前者は当初から被害者らにおいて兇器の形態を必ずしも特定しえずかつ二年の日時を経過していることに鑑みれば、仮に強制捜査によって兇器と思われるものを差押えたとしても犯罪の立証上どれ程の意味を持ちえたか疑問であり(現に逮捕と同時に行われた捜索差押えによるも、飛び出しナイフは発見されていないし、第一審判決は「兇器を示して脅迫した」という訴因を排斥する理由の一つとして、兇器に関する関係者の供述が度々変転し、あるいは相互に矛盾して信用できないことをあげている。)、後者については、原告との間に雇主と使用人という身分関係のある従業員から得られる供述資料は、はじめから真実を担保するものとしては多くを期待できないところであって、これら証拠隠滅のおそれを防止するために強制捜査をとることは、実際上あまり意味がないものであったと言わなければならない。
つぎに、数回にわたる任意出頭の求めにも応じないという点についてみるに、警察が、暴力行為事件についての取調べであることを明示して原告に出頭を求めたという事実を認めるに足る証拠はない。却って、≪証拠省略≫を綜合すると、原告が池田事件に関する事情聴取の途中席を蹴って退去した昭和四四年七月二七日以降池田事件捜査本部は、島原署を通じて何度か原告に出頭を求めたが、原告はこれに応じなかった、島原警察署のこの呼出しに関するメモに基づき長岡警部補は、前記のとおり同年九月三日付「強制捜査の必要性について」と題する捜査報告書に「従前再三にわたる呼出しに応じなかったことから本件取調べのための呼出しを求めても応ずる可能性がない」旨を記載し、これを逮捕状請求の資料にしたことが認められる。すなわち被疑事実に関する限り、原告は、数回の呼出しにも応じなかったのではなく、呼出しても出頭しないことが見込まれたに過ぎない。
以上を要するに、原告逮捕の理由と必要性が全く認められないわけではないが、その理由と必要性は極めて乏しいものであったといわなければならない。そして、さきにみた証拠資料収集上の問題点、逮捕状請求書における「逮捕を必要とする事由」の記載上の誇張ないし不正確に徴すると、その逮捕自体違法とまでは言いえないとしても妥当性を欠くものとの評価は免れないし、右手続上問題となる点は、警察のいわゆる別件逮捕の意図を徴表する事由となるものである。
(三) (勾留中の取調べの違法性)警察が原告の身柄を手許において取り調べたのは、九月一三日逮捕当日から九月二五日までの一三日間であるが、原告はその間毎日長時間にわたり警察官の面前に引き出されて取調べを受けている。被疑事実の軽微性に比べて、そのこと自体すでに尋常ではないが、≪証拠省略≫によれば、逮捕当日原告は五時間二〇分に及ぶ取調べを受け、被疑事実について調書の枚数にして一〇枚の供述をしており、翌一四日も六時間近い間取調べを受けたことが認められる。右両日の取調べが、報道関係者らに取りまかれて多少の障害を伴ったとしても、被疑事実自体は比較的単純なものであるから、右二日間にわたる取調べをもってすれば、一通りの取調べを完了するにほぼ十分である。被告は、被疑事実の取調べのために右勾留期間中の取調時間が費されたようにいうが、被疑者である原告が、被疑事実の殆んどを否認し、被害者林田らの供述と違う供述をしたときは、事件が古いものであることに鑑み被害者らについて事情を再聴取するなどしたうえで被疑者を取り調べるというのが捜査の常道であろう。ところが、警察が原告逮捕後において林田次男やその両親らについて原告逮捕前の供述の正確性を再確認したり、その他客観的証拠の収集などの努力をしたと認めうる証跡は全くない。こうした努力を全くしないで、ただ原告に対してのみ連日にわたり単純な事実について取調べを繰り返したとすれば、それはもはや取調べではなくある段階からは自白の強要という違法な性格を帯びるものといわなければならない。ところが、≪証拠省略≫によれば、原告が被疑事実について本格的取調べを受けたのは、逮捕当日だけで、その後一、二度形ばかりの取調べを受けたことはあったが、その他の日は専ら池田事件に関連して執拗な追及を受けたというのであり、右供述は、その言葉どおりではないにしても、原告をしてそのような印象を抱かせるような取調べが行われたことを窺わしめる。果して、警察側の作成した多少作為的疑いのある資料によってすら、前記のとおり、警察官の面前に原告が引き出されていた時間八一時間五五分のうち、池田事件の捜査のため充てられたと推定される時間は、実に五一時間四〇分の多きに達し、実際の池田事件のための取調時間はこの推定時間を上まわることはあっても下まわることはなかったと思われる。
逮捕前においてすら被疑者扱いの取調べに反撥していた原告を接見禁止処分の下においてした以上のような池田事件に関する取調べは、もはや逮捕・勾留の基礎となった被疑事実に附随的、平行的なものとはいえず、ましてや取調べに対する任意の応諾など認めようもない。すなわち、捜査官の主観的目的を問題にするまでもなく、その取調自体違法であると同時に、他面池田事件捜査本部が逮捕前から抱いていた違法な目的が顕在化した取調べと評価することができる。
(四) (警察が当初から原告の身柄拘束を池田事件に利用する意図であったことの徴表となる若干の補足的事実)以上(一)(二)(三)の各項に考察してきたところは、ことごとく1の前提判断において、捜査官の違法目的を推認しうる要件として列挙したところに該当するが、そのほかにも本件逮捕が、当初から池田事件の捜査に利用する目的の下に行われたことを裏づけると思われる事実は決して少くない。主なものを摘記するとつぎのとおりである。
① 池田事件捜査本部が、甲野太郎に対する逮捕状を、任意出頭に応じないことを理由に請求し、その発付を得たが、結局これを執行しないで終ったことのあることは、当事者間に争いがないところ、≪証拠省略≫によれば、右逮捕状の請求は、原告逮捕の翌日である昭和四四年九月一四日のことであり、その請求書記載の被疑事実は、同年五月末日ごろの深夜友人ら三名と普通乗用自動車で帰宅途上、隣り合せに座っていたキャバレーホステスの身体にさわるなどいたずらをしようとして強く拒絶されたことに激昂し、自動車が途中停車したのを機に車を降りて、外から乗車中の右ホステスの背部などを数回足蹴りにした、というそれ自体いかにも掘り起されたような事実であって、これを前後の事情にてらすと、任意出頭による取調べでは最後まであいまいな供述に終始した甲野を原告の逮捕に合わせて逮捕し、一挙に池田事件について両名を追及しようとした捜査官の意図の現われとみることができる。
② 原告に対する逮捕状、捜索差押令状の執行状況は、事件の軽微性に比して余りに物々しい。この点に関し、池田事件の捜査本部員が探知した関係で同本部員をこれに当てた等という被告の主張は、単なる弁解というほかない。けだし、池田事件の捜査継続中にわざわざ長崎から捜査主任官以下十余名もの捜査員が島原に集結して執行に当ったことは、原告の逮捕が池田事件解決の突破口になるという見込みの下に、まさに池田事件のためにする逮捕であった証左というほかないからである。
③ 捜索の結果原告の自宅において押収した刺身包丁二本は、その後長崎県警鑑識課へ鑑定物件としてまわされているが、この鑑定目的について池田事件捜査本部長であった証人西田宣治は、暴力行為事件の犯行に供された兇器について類似しているのでその形態等の鑑定といい、また原告代理人の追及に対して、血液や指紋の鑑定を含むものではあったが、池田事件の捜査目的ではなかった旨供述している。しかし、被疑事実では、原告が林田に対し包丁を突きつけたというにとどまり(この被疑事実自体が検察官の捜査段階で完全に崩れ去っていることは前述のとおり)、形態の鑑定というのもどのような意味があるのか了解に苦しむところであり、血液の附着の有無、血液型、指紋等の鑑定に至っては、右被疑事実立証上全く無意味というしかない。このような鑑定がなされたということは、池田議長殺害に供された兇器である可能性ありという見込みの下に行われたという以外合理的説明はまずありえない。すなわち、原告逮捕とともに行われた捜索も、被疑事実の捜査に藉口して池田事件の捜査をしたものという疑いが極めて濃厚である。
④ ≪証拠省略≫によれば、原告が逮捕された翌日の各新聞は、一様に原告の逮捕を池田議長刺殺事件のための別件逮捕という表現で報道したことが認められるが、このことは、日常捜査官と接触しつつ捜査の経過に注目してきた者(取材記者)の目には明らかに別件逮捕とみられる程に、捜査本部の池田事件のためにする意図が明白になっていた一つの徴表的事実といえよう。
(五) (結語)以上の考察を綜合すれば、その余の点に言及するまでもなく、もはや本件原告の逮捕が当初からその身柄拘束を専ら池田事件捜査に利用するという違法な目的の下に行われたものであることは明らかであって、単に本件勾留中の取調べが違法というにとどまらず、逮捕行為およびこれに続く身柄拘束とこれを利用した取調べのすべてが原告に対する不法行為を構成するものといわなければならない。被告は、池田事件と原告との間に重要な又はなんらかの関係ありとの疑いを抱くについては相当な理由があったことをもって、原告についてした池田事件に関する捜査の正当であることを強調するが、たとえそのような理由があったとしても、被告のいうところは、違法なのは池田事件に関して捜査したこと自体にではなくその捜査方法にあることを認識しない議論であって、排斥を免れない。
なお、原告勾留中の九月二四日原告の弁護人から原告の勾留はいわゆる別件逮捕を基礎とし専ら被疑事実以外の事実の取調べに利用されている違法勾留であるとして勾留の取消申立が出されたのに対し、長崎地方裁判所は、翌二五日これを却下したことについてはさきにみたとおりであるが、その決定書によれば、却下の理由は「勾留被疑事実の取調べを全く行わず、勾留を利用して他の事実のみを専ら取調べているのならば格別、一件記録によるもそのような事実は認められず、むしろ本件勾留状による勾留中本件暴力行為等処罰に関する法律違反の被疑事実についての捜査がなされており、今後もさらに取調べが必要な状況にあることが明らかである。」というものである。しかし、右決定の判断資料とされている一件記録なるものは、警察が提出した捜査報告書、関係者の供述調書その他の記録を指すものと解され、したがってその時点で原告に対する取調べの実態をどこまで明らかにしえたか疑問であるばかりでなく、ましてや警察の違法目的を裏づけるような資料は望みうべくもなかったと思われる。そして、その身柄拘束中逮捕・勾留の基礎事実について若干の取調べが行われたことは、警察がこれを身柄拘束の適法性の隠れみのにするものであった以上むしろ当然であるから、右のような司法審査を経たことがあるからといって本件逮捕・勾留の違法性はいささかも払拭されるものではない。
四 報道機関に対する配慮の欠如に基づく名誉侵害の主張について
この点に関する原告の主張は、違法な逮捕や取調べが直接不法行為事由となることとは別に逮捕が違法であれ不当な段階にとどまるものであれ、本件逮捕行為やその前後警察が原告に関連して報道機関に対してとった積極消極の不当な措置が、原告の名誉を著しく傷つける報道を招来するに至った、すなわちこれらの意識的な、あるいは不注意な行為は刑事訴訟法第一九六条の注意義務に違背して不法行為を構成するというにあるものと解される。
そこでこの点について判断するに、おおよそ逮捕によってもたらされる被疑事実捜査上の利益と、その逮捕が被疑者に及ぼす不利益とを比較較量するとき、後者の不利益が前者の利益をはるかに上まわると言えるような逮捕は、仮にその逮捕手続自体に違法性がない場合であっても不当な逮捕となり、場合によっては違法な逮捕と目されるに至り、したがって被疑者に対する不法行為事由を構成すると考えられる。本件についてこれをみるに、弁論の全趣旨によれば、池田事件に関する報道関係者の取材活動は極めて活発なものであったことが認められ、また逮捕以前から新聞等が池田事件の捜査状況を報ずる中で、事件に重要なかかわりを持つ疑いのある人物として原告のことを「島原市内の女性」とか「ナゾの女」といった表現で報道していたことを警察も熟知していたことは、被告もこれを争わないところであり、更に≪証拠省略≫によれば、池田事件捜査本部の首脳陣は、原告をその時点で逮捕すれば、新聞その他の報道機関が原告を名指しで正面から池田事件に関係するものとして報道するであろうことを十分予見していたことが認められる。果せるかな、原告逮捕の結果報道機関がいっせいに予測されたような報道をしたことは、つぎに損害の項で判示するとおりであるが、他方、逮捕の理由たる暴力行為被疑事実は、前述のとおりその捜査のためだけなら逮捕する必要性に乏しく、少なくとも、原告の名誉を著しく侵害する報道がなされることが明らかに予見される時点であえて逮捕するまでもない事件であったということができる。それをあえて逮捕という強制捜査に踏み切り、その結果原告の名誉を毀損したという意味でも本件逮捕は不法行為事由となりうるが、そもそも原告の逮捕は被疑事実についての捜査上の利益ないし目的のためにとられた手段というよりは、主として池田事件に関する捜査上の利益を追求するための手段とされたもので、それ故に別件逮捕として違法なものであるから、逮捕の結果生じた報道による原告の名誉侵害は、別件逮捕そのものの結果あるいはその派生的、拡大的損害として評価すれば足りると一応考えられる。
問題は、これに加えて警察の報道機関に対する発表その他の措置に、それ自体原告の名誉を違法に毀損する事由があったか否か、いいかえれば違法逮捕の結果として通常生じる名誉毀損の被害程度をより増大する原因があったか否かという点である。思うに、警察官は、捜査上被疑者その他の者の名誉を害しないように注意すべき義務(刑事訴訟法第一九六条)や、職務上知りえた秘密を漏らしてはならない義務(地方公務員法第三四条、国家公務員法第一〇〇条)を負っているところ、ある犯罪に関する一般的捜査状況についてはもとより、特定の被疑者にかかる犯罪事実についての発表や報道も、公共の利害に関する事実の発表や報道として、それが社会的要請に基づく場合は原則的に法律上も名誉毀損等の犯罪を構成しないものとされているとともに(刑法第二三〇条の二)、社会的、政治的に重大な犯罪事件については、一般市民が捜査状況に関する報道に対して抱く期待と要請は相当強くなるため、いきおい捜査に当る警察としても報道機関に対し最少必要限度の情報提供は避け難いところであろう。しかし、警察において嫌疑をかけているに過ぎずいまだ客観的に被疑者といえない者にかかる被疑事実の発表その他の情報提供については、その者の名誉のために極力これを避けるべきであり、これに反し特定の犯罪との関係で嫌疑を発表し、その結果その者の名誉を毀損したときは、右の発表その他の情報提供は、特段の事由のないかぎり、単に服務規定違反というにとどまらず、被疑者に対する関係で不法行為を構成するというべきである。
本件における警察の報道関係者に対する対処の仕方をみるに、≪証拠省略≫によれば、池田事件捜査本部の行った具体的発表や措置に関する限りはおおむね被告主張(「被告の答弁および反論」のうち「3報道機関に対する不注意による名誉侵害の主張について」の項参照)のとおりであることが認められ、原告が指摘するところの、原告逮捕以前の段階で甲野運転のコンテッサに同乗して検問にかかった女性が原告であるということを発表したとか、その他原告が池田議長を刺殺した犯人であるとかその共犯者であるといった断定的発表をし、あるいは取材記者の誰も探知していない原告の秘密に属する事項を積極的に発表したとかいうようなそれ自体相当性を直ちに否定されるべき行為は、これを認むべき証拠はない。しかしながら、そもそも報道関係者からも原告が池田事件に関係しているのではないかと見られる発端となった、不審点の多い甲野運転の車に同乗して検問にあった女性は「島原市内の某県議の娘」とかあるいは明示的に「八木晴恵である疑いが強い。」とかという情報は、事柄の性質上捜査本部関係者から漏れた疑いが強いし、被告が一部の新聞にすっぱぬかれたという捜索の際任意提出を受けて領置した原告から母親宛の手紙の内容についても同様のことがいえる。そして≪証拠省略≫によって明らかな一般新聞紙面の報道記事と前記取調日誌の記載を対比綜合すれば、池田事件捜査本部が、報道関係者に対し、逮捕当日から九月二五日までの間原告をめぐる取調べ概況を池田事件との関連でもかなり詳しく発表していたこと並びに少くとも原告逮捕後においては、原告を池田事件に重大なかかわりを持つもの又は事件についてなんらかの知識を有するものと見ていることを公式、非公式の場で明示的黙示的に表明していたことは明らかである(逮捕当日島原市と捜査本部の二ヶ所において原告の逮捕を発表すると共に、池田事件に関しても不審点は究明する旨表明したことのほか明示的な表明の例をあげれば、九月二五日の長崎新聞は「捜査本部の柿森主任捜査官は『これまでの調べで晴恵と事件のつながりに自信を深めた。検問などはっきりしていることでもウソをついており、こんごも証拠の積み重ねで煮つめていく』と話している。」と報じ、同年一〇月一日の同新聞は、捜査本部の大宝長崎署刑事官(≪証拠省略≫によれば捜査副主任官であったことが認められる。)の話として「いまの段階では晴恵自身から(池田事件について)調べることはあきらめていたので釈放されても別にショックではない。捜査当局からははっきりしていることでも認めないんだから仕方がない。こんごは白紙にかえって動かぬ証拠、証言をさがす。」と伝えており、右各記事の文言に副う談話が発表されたことを推認させる)。これらは、捜査本部が原告の逮捕を池田事件捜査の手段としていたことの当然の成行ともいえるものであるが、報道機関が、逮捕・勾留という客観的に明白な事実や各報道機関独自の取材活動の成果に基づいてのみ報道する場合と比較して考えると、同じように原告を池田事件と関連づけて報道するにしても、捜査本部自らが原告に対する強い嫌疑を表明したことが、報道内容をより確信的なものとし、また取材記者らのより激しい情報追求と推測に基づく報道を誘発し、いきおい誤解に基づく報道を防止するための情報提供を余儀なくさせるとともに、その機会に得た資料に基づいてさらに池田事件と原告とのかかわりあいに関する報道が拡大的に反復継続されるという悪循環を招来したことも否定できない。
以上を要するに、原告の名誉にかかわる捜査上の機密保持について、池田事件捜査本部に落度があった疑いは強く、暴力行為被疑事実で逮捕した原告について全く右被疑事実とは別の殺人という重罪である池田事件との関連でまでその取調べの経過や捜査官の嫌疑を表明したことは、これを正当とすべき特段の理由は見当らないから、結局本件身柄拘束自体によって生じる以上にその名誉を侵害した過失行為であるというほかない。
五 原告の損害(名誉毀損の結果)について
原告が本件違法逮捕を基礎とする身柄拘束と、身柄拘束期間中の連日長時間にわたる前述の執拗な取調べによって相当な肉体的精神的苦痛を蒙ったことは想像に難くない。しかし、それにもまして原告が苦痛としているところが、本件違法な逮捕・取調べによって、原告がいかにも池田事件の犯行関与者であるかの如き印象を広く世間に与えて著しく名誉を毀損されたという点にあることは請求自体から明らかである。
しかして、原告の逮捕、勾留中の取調べに関してどのような報道がなされたかについてみると、≪証拠省略≫によれば、一般日刊新聞は、原告のことをその逮捕に至るまでは「島原の女性」とか「県内有力者の娘」「某有力県議の娘」といった表現で、コンテッサに同乗していた疑いのあることあるいは甲野との関係や捜査本部から任意取調べを受けたことなどを報道していたが、原告が逮捕された翌日の朝日、毎日、読売(以上いずれも西部本社版と推認される。)、長崎、西日本等の各新聞は、池田事件関係のニュースとして、いわゆる社会面に、六段あるいは五段抜きの例えば「副議長の娘を別件逮捕、進展みせるか難航中の捜査、解明へカギ握る一人?」等の見出しを付けて原告の逮捕を報じ、原告の顔写真等を掲げてその氏名、住所、身分を明示するとともに、池田事件捜査本部では、池田事件について考えられる動機のうち政争説を重視し、原告には犯行に関与する動機が十分あると見ているとか、疑惑の多い甲野運転の車との関連(同乗の有無)や、さきに恐喝容疑で逮捕し、勾留延長して取調中の南条斉とともに事件の背後にひそむ黒い関係を追及することになろうといった記事を掲載したこと、原告が勾留された九月一六日前後の各新聞は、原告について池田事件関係の取調べがいよいよ本格化するものとか、捜査本部が勾留とともに本格的取調べに入ったと報じ、同月二〇日前後に至ると、原告が、池田事件当夜の宇都検問所検問官との対決や、押収された池田議長殺害を肯定する趣旨の母親宛の手紙をつきつけられて事件とのかかわりを否認しながらも動揺の色を見せているが、今後はこの七月はじめに書かれたとみられる手紙の追及がヤマになるとか、原告が警察の手を離れた九月二五日および釈放された日の翌日一〇月一日には、原告の全面的否認にあって物的証拠のないまま捜査は進展しなかったが、これまでの取調べによって捜査本部は池田事件と原告とのつながりに確信を深めているなどと報道したこと、九月下旬ごろ発行されたとみられるアサヒ芸能(九月二五日号)、週刊読売、週刊ポスト(以上一〇月三日号)、週刊サンケイ、週刊実話(以上一〇月六日号)等の週刊雑誌は、「県会議長殺しの容疑者は副議長の娘」といった標題の下に池田事件を報ずる中で、センセーショナルに原告の性格、生育歴、家族関係等を書き立てたことが認められ、以上の事実に徴して、当時のラジオ、テレビ等の報道機関も全国的に、原告の逮捕を新聞と同様の取り扱いで報道したことが推認される。
原告の当時の年令、身分、職業については冒頭にふれたとおりであり、弁論の全趣旨によればそれまで原告には前科前歴もなかったことが認められるところ、以上一連の反復継続された報道は、一般人にいかにも原告が池田議長殺害に関与しているかのような疑いを抱かせるに十分なものであって、その結果原告の名誉すなわち人格に対する社会的評価が著しくそこなわれたことは疑う余地がない。そして、これらの報道が、一部興味本位の前記週刊誌の記事は別として、警察それも池田事件の捜査本部が、池田事件捜査の進展が極めて注目されている時期に違法目的をもって原告を逮捕したことおよびその後違法な取調べを継続するとともにその間取材記者らに対し原告に対する強い嫌疑を表明していた結果にほかならないことは、すでに考察してきたところから明らかである。警察の行為と報道の結果との間には因果関係がないかのようにいう被告の主張は採用できない。
六 被告の責任と主位的請求の当否について
原告に対し本件違法な捜査方法を職務執行行為として実行した者は池田事件捜査本部に所属した警察官であるところ、これらの者がいずれも被告長崎県の公権力の行使にあたる公務員たる警察職員であることについては、当事者間に争いがないところであるから、被告は、国家賠償法第一条第一項によるほか民法の定めるところにより原告に生じた損害を賠償すべき義務がある(同法第四条)。
ところで、本訴の主位的請求は、民法第七二三条に基づき被告に対し損害賠償に代えて謝罪広告を求めるものであるが、右法条の趣旨は、不法行為によって名誉が毀損されかつそのそこなわれた状態が回復されないで存続する場合は、金銭賠償に代え又はこれと共に適当な回復手段をとることを許すにある。そこで原告の名誉毀損の状態が継続しているかという点について考えてみるに、原告は釈放後再び池田事件について取り調べられることも、したがって起訴されることもなく現在まで相当の期間を経過したことによって、毀損された原告の名誉も自然にそれなりの回復をみていることは当然予想できるが、池田議長殺害の犯行者が現在に至るも検挙されていないことは長崎県下では公知の事実であり、そのこととあいまって、本件名誉侵害によって生じた有形無形の影響は原告の上にいまなお残存しているものと認められる。
しかして、原告の求める謝罪広告の文面、広告手段として新聞広告による方法、広告自体の大きさ、用いる活字の大きさ、掲載の回数、掲載新聞を一般新聞四紙としたこと等は、本件事案の態様に徴して、いずれも右損害を回復する手段として相当と認められる。しかし、謝罪広告の地域的範囲については問題がある。右謝罪広告によって回復されるべきは原告に対する社会的な評価であるから、原告の社会的活動が及ばない地域においてまで右のような広告をすることは無意味である。原告の社会的生活の広がりがどの程度のものかは証拠上必ずしもこれを明らかにしえないが、弁論の全趣旨によれば、原告は興業界とのつながりなど長崎県内のみならず、少くとも九州一円に社会生活上のつながりを持っているものと認められるので、右広告は長崎県下および九州一円において購読される新聞に掲載するのが相当であり、またこれをもって足るものといわなければならない。したがって、原告が掲載を求める新聞のうち、地方紙である長崎新聞および西日本新聞については相当であるが、全国紙である朝日新聞および毎日新聞については、北九州市(各新聞の西部本社)において発行される紙面に限って正当であり、これを超えてその他の東京、大阪、名古屋、札幌等において発行される紙面についてまで掲載を求める点は、その必要性を認めるに足る証拠がなく、理由がない。結局、本件謝罪広告は、別紙第二に記載する要領によって実施するのが相当である。
七 結び
よって、原告の主位的請求を主文第一項掲記の限度で正当として認容することとし、右限度を超える部分は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 権藤義臣 裁判官 香山高秀 裁判官東条宏は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 権藤義臣)
<以下省略>